物部匝瑳 足継(もののべのそうさ の たりつぐ、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族官位従五位上鎮守将軍

経歴

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大同4年(809年従五位下に叙せられる。

弘仁2年(811年)2月に陸奧出羽按察使文室綿麻呂陸奥国出羽国の兵士26,000人を動員して、爾薩体[1]弊伊[2]蝦夷2村を征討する旨を奏上する。3月に朝廷から綿麻呂らとともに鎮守副将軍であった足継に対して蝦夷征討を許可するが出ている[3]。その後、8-9月頃より軍事作戦を展開し[4]、10月には蝦夷を多数殺害・捕獲して降伏させる[5]。同年12月に征討の軍功により関係者が昇叙された際、足継も外従五位上に叙せられている。

翌弘仁3年(812年)鎮守将軍に昇格する。その後、弘仁4年(813年内位の従五位下、 弘仁7年(816年)には従五位上と嵯峨朝前半に順調に昇進を果たした。

なお、弘仁3年(812年)の足継の副将軍からの昇格以降、承和元年(834年)に補任された熊猪[6]、承和6年(839年)に在官の記録がある匝瑳末守(熊猪の子か[7])に至るまで[8]、30年近くに亘って『六国史』に登場する鎮守将軍はいずれも物部匝瑳氏(匝瑳氏)の氏人が務めている。

官歴

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日本後紀』による。

脚注

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  1. ^ 現在の岩手県二戸郡から青森県南部にかけての一帯。
  2. ^ 現在の岩手県上閉伊郡下閉伊郡
  3. ^ 『続日本紀』弘仁2年3月20日条
  4. ^ 『日本後紀』弘仁2年7月14日条
  5. ^ 『日本後紀』弘仁2年10月5日条
  6. ^ 『続日本後紀』承和元年5月19日条
  7. ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』(太田[1963: 2679])
  8. ^ 『続日本後紀』承和6年4月26日条

参考文献

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