牧野忠雅

越後長岡藩10代藩主

牧野 忠雅(まきの ただまさ)は、越後長岡藩の第10代藩主。長岡藩系牧野家宗家11代。第9代藩主・牧野忠精の四男。老中となり海防掛担当。

 
牧野忠雅
時代 江戸時代後期
生誕 寛政11年11月6日1799年12月2日
死没 安政5年10月25日1858年11月30日
別名 鉄蔵、銀蔵(通称
墓所 長岡市蒼柴神社内の牧野家悠久山墓地
官位 従四位下、玄蕃頭、備前守侍従
幕府 江戸幕府奏者番寺社奉行
京都所司代老中
越後長岡藩
氏族 牧野氏
父母 父:牧野忠精 母:青山忠高の娘
兄弟 忠鎮石川総親忠雅
康命、妹(太田資言室)、
妹(松平信順室)、
妹(西尾忠宝室、のち水野忠実室)、
妹(青山幸寛室)
逸姫大久保忠真の娘)
養子:忠恭
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生涯

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『新板改正 安政武鑑 御大名衆 巻之二』(安政3年(1856年)刊)より越後長岡藩牧野忠雅の箇所

寛政11年(1799年)に江戸藩邸にて生まれた。四男であるが、忠精の息子で正室出生は長兄の忠鎮と忠雅、夭折した一女のみである。文化5年(1808年)、忠鎮が死去すると、庶出の兄・石川総親は既に下館藩主石川家を相続し、同じく庶出の兄の銀三郎も既に死去していたため、嗣子となる。

文政4年(1821年)に大久保忠真の娘である逸姫を正室に迎え、天保2年(1831年)に忠精が隠居すると家督を相続する。奏者番寺社奉行京都所司代を経て、老中となり海防掛担当となる。閣内の席次は阿部正弘に次ぎ、終始阿部に歩調を合わせていたが、阿部死去後、堀田正睦が名実ともに実権を握ると、老中を辞任した。翌年に死去し、家督は養子の忠恭が継いだ。

幕職年譜

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人物

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1982年の済海寺での牧野家改葬にともなう緊急遺骨調査によると、推定身長は155.4cmと当時としては比較的低身長であるが、太さは歴代藩主中で最大もしくは大きい部類に入るとしている。なお、父の忠精や兄の忠鎮は150cm代であったが、体格は華奢である。加えて、正室の逸姫の推定身長は150.3cmで、牧野家正室の中でも太い部類に属する。

主要家臣

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以下は『改訂増補 大武鑑 中巻』(名著刊行会)を参考としたもの。各役職は越後長岡藩#職制を参照。なお刊行の都合により刊行年以前の内容の可能性がある。

【安政元年(参考文献では嘉永7年)刊行の武鑑】

職名無しで武鑑に記載
中老格奉行
  • 九里孫左衛門
  • 倉沢忠左衛門(定府)
奉行
  • 杉田弥次兵衛
  • 池田小左衛門
  • 柿本庄右衛門
  • 深澤右膳
  • 稲垣林四郎
  • 名児那定之丞
用人
  • 能勢三郎右衛門
  • 小島助右衛門
  • 深澤三郎兵衛(定府)
  • 菅沼助八郎(定府、公用人兼務)
  • 渡辺左近右衛門(定府、附兼務)
  • 斎田轍(定府、公用人兼務)
  • 伴権六(定府、公用人兼務)
  • 倉沢仁輔(定府、公用人兼務)
取次頭取
  • 仙田弥市郎
  • 高野七左衛門
  • 小林儀右衛門

系譜

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父母

正室

養子

登場作品

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テレビドラマ

参考文献

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  • 橋本傳『改訂増補 大武鑑 中巻』(1965年・名著刊行会)
  • 済海寺遺跡調査団(鈴木公雄)「港区三田済海寺 長岡藩主牧野家墓所発掘調査報告書」(1986年・東京都港区教育委員会)