牧野以成

江戸時代の藩主 (1788-1833)

牧野 以成(まきの もちしげ)は、丹後国田辺藩の第7代藩主。丹後田辺藩牧野家8代。

 
牧野以成
時代 江戸時代後期
生誕 天明8年6月14日1788年7月17日
死没 天保4年8月24日1833年10月7日
改名 直太郎(幼名)、以成、益斎(法号)
戒名 崇樹院殿徳誉興英端雄仁山大居士
墓所 埼玉県鴻巣市本町の勝願寺
官位 従五位下豊前守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
丹後田辺藩
氏族 牧野氏
父母 父:牧野宣成、母:酒井忠恭の娘・タキ
兄弟 以成、久子、允成、梅、牛窪登成、多加、川口恒久
正室:堀田正敦の娘
継室:内藤政韶の娘・
継々室:戸田忠翰の娘・
緩子、文、辰子、玉子
養子:節成
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略歴

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天明8年(1788年)6月14日、第6代藩主・牧野宣成の長男として江戸で生まれる。文化元年(1804年)8月22日、父が病で隠居したため家督を継いだ。文化14年(1817年)4月に牧野家入封150年記念祭を行なっている。しかし藩政では農村経営が崩壊し、村方騒動が相次いでいる。このため財政再建を目指して質素倹約や、田畑の広さや収穫に応じて婚礼・衣類・履物に差別をつける「分限仕分」を制定するなどしている。また、学問を奨励した。文政8年(1825年)11月16日、家督を甥で養子の節成に譲って隠居する。天保4年(1833年)8月24日に江戸で死去した。享年46。

以成自身は文化人であり、益斎と号した画人で鈴木南嶺らに師事した。また、薮内流の流れを汲む茶人でもあった。

系譜

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