牟呂神富神明社
牟呂神富神明社(むろしんとみしんめいしゃ)は、愛知県豊橋市神野新田町にある神社[1]。なお平成27年に国税庁に登記されたかな名は「むろかんとみしんめいしゃ」です。呼び名が変わったのは神社を寄贈した内の一人の初代神野金之助が「じんの」姓を「かみの」姓に改称したためです。
牟呂神富神明社 | |
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所在地 | 愛知県豊橋市神野新田町字ソノ割20 |
位置 | 北緯34度44分46.2秒 東経137度20分32.0秒 / 北緯34.746167度 東経137.342222度座標: 北緯34度44分46.2秒 東経137度20分32.0秒 / 北緯34.746167度 東経137.342222度 |
創建 | 1895年(明治28年) |
別名 | 神富神社 |
地図 |
祭神
編集内宮
編集外宮
編集歴史
編集神野新田を開拓した神野金之助が入植者の統理を図るため伊勢神宮に勧請し、牟呂神富神明社を内宮(ないくう)、五郷神社[2]と二開神社[3]の2社を外宮(げくう)と 計3社を一組として1895年(明治28年)に神野金之助の寄付により創建した[4]。神野新田は1896年(明治29年)に竣成となったが、増加した入植者の心の支え、また住民の統理のため開拓者である神野金之助が下の『住民統理の三策』として実行したうちの1つ目である[5]。
— 神野金之助、『神野新田紀事』[4]
- 1つ目が神社の新設により、報国尽忠の念を起こさせる。
- 2つ目が学校の新設により、児童の全員就学、教員による願い届け出のサポートや衛生上の教育。
- 3つ目が寺院の建立で高僧による説教などで老若男女に道理を教える。
神社の新設については、神野新田の竣成の数年前に神野新田字ソノ割にある本社(後の牟呂神富神明社)、字セノ割(後の五郷神社)と字会所前(後の二開神社)を内宮と外宮と定めた。1895年(明治28年)1月1日、伊勢大廟皇大神宮の御霊を奉祀することを定め、直ちに同月7日をもって牟呂八幡社へ仮鎮座式を行い、2月10日にソノ割に新築した社殿に遷しまいらせ、うやうやしく鎮座の式典を挙げ、同時に豊受太神宮をセノ割、及び会所前の外宮へ鎮座の式を行った。なお、神富神社の「神富」は、創建した神野金之助と共同経営者の富田重助の名字の各1文字より付けられたものであるが、園龍寺の山号である神富山が関係している可能性も高いとされる。五郷神社と二開神社は神野新田内の地区名を付けたものである。神野新田の竣成式は神社の新設の翌1896年(明治29年)4月15日で、神野新田の竣成に先経って神社の設置が優先された。
年表
編集境内
編集牟呂神富神明社(内宮)の境内は1,500坪あり、鳥居や石灯籠などを備えているほか、境内にはマツやスギが繁茂している。五郷神社と二開神社(外宮)は150坪ずつで、社、その他総て内宮と同じである。
領徳碑
編集神野新田の開拓と発展に寄与した3名の徳を称えた領徳碑が建立されている。
- 「神野金之助翁領徳碑」 - 境内入口東側横。神野金之助は神野新田を開拓した人物[6]
- 「富田重助翁領徳碑」境内入口西側横。富田重助は神野金之助の甥で神野新田の共同経営者でもあった人物。
- 「神野三郎翁領徳碑」道路を挟んだ境内向かい。神野三郎は神野金之助の甥かつ娘婿で神野新田の発展に尽力した人物。
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鳥居
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本殿
祭事
編集現地情報
編集- 所在地
- 交通アクセス
脚注
編集- ^ a b c d “ええじゃないか豊橋”. 豊橋観光コンベンション協会. 2021年3月22日閲覧。
- ^ “豊橋百科事典 02百科事典カ行”. 豊橋市. 2019年2月1日閲覧。
- ^ “豊橋百科事典 05百科事典ナ行”. 豊橋市. 2019年2月1日閲覧。
- ^ a b c d 神野金之助(編) 1904, p. 58-60.
- ^ 今泉鐸次郎 1908, p. 98-108.
- ^ “神野新田(神野金之助翁領徳碑)”. 愛知県. 2019年2月1日閲覧。
- ^ “五郷神社祭礼”. 愛知県東三河広域観光協議会. 2021年3月22日閲覧。