熊谷直彦
熊谷 直彦(くまがい なおひこ、文政11年12月14日(1829年1月19日) - 大正2年(1913年)3月8日)は、日本の江戸時代末期から大正時代にかけての日本画家、芸州藩士。父は賀茂神社の神職・山本季金。幼名を藤太郎と言った。
生涯
編集京都出身。1841年(天保12年)の時、四条派の有力な画家であった岡本茂彦に入門、名を季彦、のち直彦と改める。茂彦の死後は独学で日本画の技術を磨いた。1844年(弘化元年)に、芸州藩京都詰衣文方であった熊谷左門の養子となって、熊谷直彦と名を改めた。
幕末になると芸州藩士として国事に打ち込むようになり、尊皇攘夷論者として活動した。芸州藩執政・関忠親(蔵人)との関わりもあり、1862年(文久2年)5月に広島に入り、関の側近となった。同年8月には、野村帯刀に従って上京した。後に京都留守居役にも任じられた。
明治維新が成就、版籍奉還が行われた後は、広島藩大属となった。その後東京に出て、積極的に絵画の道を再び歩み活躍、諸国を遊歴して山水景勝を自家薬籠中の物とした。1884年(明治17年)第2回内国絵画共進会に「大江山」「鯛」を出品し銅賞を受ける。また、明治宮殿造営に際し、杉戸絵を手がける。1893年(明治26年)のシカゴ万国博覧会に「雨中山水」、1900年(明治33年)パリ万国博覧会でも同名の作品を出品。1898年(明治31年)旧主浅野候から厳島神社に奉納された「滄海日出」「山頭初月」を制作。日本美術協会で活躍し、1903年(明治36年)日本美術協会秋季展で特別賞状を受賞。それらの功績を認められ、1904年(明治37年)4月16日に帝室技芸員となった[1]。東宮御所の新築に際しては杉戸の絵を描いた。
1913年(大正2年)没。墓所は豊島区駒込の染井霊園。山水・人物画を得意とし、養父との関係から衣冠束帯、有職故実に通じていた。
作品
編集作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款・印章 | 備考 |
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雨中山水 | 紙本墨画 | 1幅 | 149.6x81.3 | 東京国立博物館 | 1893年(明治26年) | シカゴ万国博覧会出品作 | |
月下狸図 | 絹本墨画淡彩 | 1幅 | 162.0x71.2 | ボストン美術館 | 19世紀 | ||
雨中秋山 | 絹本淡彩 | 1幅 | 157.5x71.2 | 東京国立博物館 | 1912年(明治45年) | ||
十二ヶ月山水図 | 絹本著色 | 六曲一双押絵貼 | 128.5×49.5(各) | 広島県立美術館 |
脚注
編集- ^ 『官報』第6236号、明治37年4月18日。
参考文献
編集- 朝日新聞東京本社企画第一部編集・発行 『即位記念 「近代日本画壇の巨匠たち」展図録』 朝日新聞社、1990年、pp.38-39,118-119