瀧山
瀧山 滝山:たきやま、文化2年(1805年) -明治9年( 1876年)1月14日は、江戸幕府13代将軍徳川家定・14代家茂時代の将軍付御年寄で、最後の御年寄である[1]。御鉄砲百人組・大岡義方の娘[1]。名は多喜。同じころに大奥勤めをしていたませは姪にあたる。また勝海舟の母・信の従姉妹でもある。
たきやま 瀧山/滝山 | |
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生誕 | 文化2年(1805年) |
死没 | 1876年(明治9年)1月14日(72歳) |
墓地 | 川口市錫杖寺 |
別名 | 大岡多喜 |
職業 | 御年寄 |
活動期間 | 1818年 - 1866年 |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代前期 |
純資産 | 白銀30枚 |
親 | 父:大岡義方 |
親戚 |
姪:ませ 叔母:染嶋 |
生涯
編集文政元年(1818年)、14歳で大奥に上がる。その後、才覚が認められて家祥付御年寄を経て将軍付御年寄に任じられた。安政期の将軍継嗣問題の際には南紀派(慶福派)に属しており、上臈御年寄・歌橋や13代家定の母・本寿院らと共に一橋派と対立、家定御台所・篤姫周辺らが推す慶喜の将軍就任に反対した[2]。家定は次期将軍に慶福(後の家茂)に決定させ、安政5年7月6日(1858年8月14日)に死去した。
10月24日(11月29日)に家茂とその実母・実成院が本丸大奥に入る。実成院はかなりの派手好きで、毎晩女中らと酒を飲み騒いでいた。瀧山は実成院付の御年寄・藤野に「実成院様には、毎晩の御酒を控えるように」と注意を促したが、実成院はこれを聞き入れることなく騒いでいた。瀧山は実成院に直接「大奥の風紀が乱れるため、毎晩の御酒を控えるように」と厳重注意をした。実成院はこれが気に入らず瀧山の注意を聞き入れることはなく、毎晩飲みながら騒いだという。
慶応2年(1866年)に家茂が亡くなった際、御年寄職を辞したと考えられる[3]。
江戸城開城後は自分に仕えていた侍女仲野の生家である船津家を頼り、現在の埼玉県川口市で過ごす。晩年、船津幸次郎と美祢の夫婦養子を迎えて「瀧山」の苗字を名乗らせ、瀧山家を興した[要出典]。
法名は瀧音院殿響誉松月祐山法尼[5]。墓所は川口市の錫杖寺[6]。
維新後にまとめられた徳川慶喜の回想録『昔夢会筆記』には、当時慶喜が将軍職を引き受けるのを渋っていた理由として、幕府の衰亡の兆しが見えていたことと「大奥の状態をみるに瀧山は実に恐るべきものにて実際老中以上の権力あり、ほとんど改革の手をつくべからず、これを引き受けるのは到底立ち直す事は難しい」と瀧山の存在を挙げている。
瀧山家
編集関連作品
編集- テレビドラマ
脚注
編集- ^ a b 朝日日本歴史人物事典「滝山」
- ^ 水戸の徳川斉昭が兄嫁の峰姫(11代将軍・徳川家斉の娘)付きの上臈・唐橋に手を出すなどのいざこざを起こしたこともあり、大奥は水戸嫌いとなっていた。大奥居住者のなかでも本寿院は「慶喜殿が将軍になるなら、わらわは死を選ぶ」と言い放ち、瀧山もこれに賛同したという。大奥にも少数ではあるが、継嗣問題のパイプ役として送り込まれた御台所付きの幾島ら一橋派の者もいた。ただし、篤姫自身は養父の近衛忠煕に宮中で慶喜を継嗣とする工作を行わないよう書状を出している。これについて幾島は「歌橋らの吹き込みによるもの」と弁明している。
- ^ これまでは、奥女中らにその功労に合わせて拝領物を与え、大奥の最後の幕引きをしたのは瀧山であると言われていた。しかし、「七宝御右筆間御日記」に慶応3年(1867年)正月より瀧山の名前が登場しなくなったことや、慶喜の御台所・美賀子が慶応3年に「下宿(永の暇)」した瀧山に対して白銀30枚を送ったとされていることから、実際には江戸城開城以前に大奥を退いたと思われる。
- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus「滝山」
- ^ 錫杖寺公式サイト瀧山家墓所
- ^ 錫杖寺公式サイト
- ^ 役名は滝川