潘辰
生涯
編集幼くして父母を失い、おじに従って北京に居住し、文学の名声で知られた。1493年(弘治6年)、弘治帝が山林に隠れた才徳の士を推挙するよう天下に布告すると、府尹の唐恂が潘辰を推挙した。吏部は潘辰が北京で成長したことからこれを退けた。唐恂が再び上奏し、さらに給事中の王綸と夏昂が推薦したため、潘辰は翰林院待詔に任じられた。長らくを経て、翰林院典籍の事務を管掌した。『大明会典』の編纂に参加した。1503年(弘治16年)、五経博士に進んだ[1]。1509年(正徳4年)5月、劉瑾が『大明会典』の小さな瑕疵を指摘したことから、潘辰は翰林院典籍に降格された。まもなく五経博士にもどされた。6月、翰林院編修となった[2]。1517年(正徳12年)、太常寺少卿に抜擢された。1519年(正徳14年)8月、致仕した。12月、死去した[3]。
脚注
編集参考文献
編集- 『明史』巻152 列伝第40