漣 (雷型駆逐艦)
漣(さざなみ、旧仮名:ササナミ[18])は、日本海軍の駆逐艦[2]。 雷型駆逐艦の4番艦である。 艦名は「微風のために起きる水上の波紋」の意味、いわゆる「細波」[2]。 同名艦に吹雪型駆逐艦(「特II型、綾波型」)の「漣」がある為、こちらは「漣 (初代)」や「漣I」などと表記される。
漣 | |
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横須賀で整備完了した「漣」(1900年(明治33年)中期)[1] | |
基本情報 | |
建造所 | ヤーロー社[2][3] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 |
水雷艇駆逐艇[4] → (三等[5])駆逐艦[2] |
母港 | 最終時:横須賀[6] |
艦歴 | |
計画 | 第一期拡張計画[7](明治31年度[8]) |
発注 | 1897年4月30日製造契約[9] |
起工 | 1897年6月16日[10] |
進水 | 1899年7月8日[8][10] |
竣工 | 1899年8月28日[8][10] |
除籍 | 1913年4月1日[8][2] |
その後 | 掃海艇 → 標的船[8] → 撃沈処分 → 売却 |
改名 | 1914年8月23日「漣丸」[11] |
要目 | |
排水量 | 341英トン[2] |
長さ | 220 ft 8 in (67.259 m)[3][12] |
幅 | 20 ft 6+11⁄16 in (6.266 m)[12] |
深さ | 13 ft 08 in (4.166 m)[12] |
吃水 | 計画:5 ft 2+3⁄8 in (1.584 m)[3][12] |
ボイラー | ヤーロー式缶 4基[13] |
主機 | 直立3段4筒レシプロ 2基[14] |
推進 | 2軸[14] |
出力 | 6,000馬力[3][13] |
速力 | 計画:31ノット[3][13] |
燃料 |
石炭100英トン(全量)[15] 1904年:石炭90トン[16] |
乗員 | 竣工時定員:52名[17] |
兵装 |
竣工時[13] 12ポンド砲 1門 5.7cm砲 5門 朱式[14]18インチ(45.7cm)発射管 2門 |
艦歴
編集建造
編集第一期拡張計画による建造[7]。
1897年(明治30年)4月30日にヤーロー社と駆逐艇2隻(第五号、第六号駆逐艇)の製造契約を結ぶ[9]。
1898年(明治31年)
3月16日、製造中の「第六号水雷艇駆逐艇」が「
回航
編集後発回航員は「鎌倉丸」に乗船し9月14日イギリスに到着、9月17日に総員乗艦[10]、 同日軍艦旗を掲揚した[22]。 10月16日にグリーンハウスを出港、日本回航の途に就いた[23]。 翌17日午前0時50分スピットヘッドに到着、同地で仮泊し、午前11時45分ポーツマス軍港の第2浮標に繋留した[23][24]。 プリマス[25]、 ブレスト[26]、 リスボン[27]、 ジブラルタル[28]、 マルタ[27] (12月13日出港[29])、 カラマタ[30] などに寄港、 12月25日スエズ運河を通過した[31]。
1900年(明治33年) 1月3日アデン着[32]、 1月15日出港し、24日コロンボに入港した[33]。 「漣」は領収直後から復水器水管に故障があり、漏水によって缶水に海水が混じることが続いていた[34]。 回航中もポートサイドで水管1本を交換するなど[34] 応急修理を度々行った[35]。 このために主機にも不具合が生じ、コロンボで10日以上かけて修理を行った[36]。 2月7日コロンボ出港[37]、 シンガポール[38]、 香港[39] などに寄港し、 3月24日佐世保軍港に到着した[8][40]。 3月27日佐世保出港[41]、 門司[42]、 粟島[43] に停泊し、 同月29日午前2時55分に横須賀に帰港、第二浮標に繋留した[43]。
1900年
編集1900年(明治33年)5月15日、横須賀水雷団第一水雷艇隊所属[44]。
6月22日、軍艦に編入され駆逐艦に類別[8]、 軍艦「漣」の定員は55名とされた[45]。
日露戦争
編集1904年(明治37年)に日露戦争が開始され、旅順口攻撃、黄海海戦に参加[8]。1905年の日本海海戦では5月28日にロシア駆逐艦のベドーヴイを拿捕し、バルチック艦隊司令長官ロジェストヴェンスキー中将を捕虜とした[8][46]。
1905年
編集1905年(明治38年)12月12日駆逐艦は軍艦から独立した艦種になり、「漣」も軍艦から駆逐艦へ艦籍を変更した[8]。
1908年
編集1908年(明治41年) 7月28日長崎を出港し、試運転を行った[47]。
1912年
編集1912年(大正元年) 8月28日艦艇類別標準が改定され、駆逐艦には一等から三等までの等級が付与された[48]。 駆逐艦「漣」の等級は三等(計画排水量600噸未満)とされた[5]。
11月6日朝[49]、第4駆逐隊は湾口で対抗運動中に2番艦「漣」の艦首が1番艦「曙」の艦尾に衝突した[50]。 「漣」は艦首の水線上部分が屈曲し、多少の浸水があった[50]。 「漣」は直ちに横須賀に帰港して入渠、観艦式参列に問題は無かった[50]。
除籍
編集1913年(大正2年)4月1日、駆逐艦籍から除かれ[6] (除籍[2])、 艦艇類別等級表からも削除された[51][52]。
第一次世界大戦
編集1914年(大正3年) 8月23日に雑役船に編入、船名を「漣丸」と改称、横須賀防備隊に臨時附属とされた[11]。 10月から11月の青島の戦いに従軍した[53]。
標的船
編集1915年(大正4年) 4月17日に「漣丸」は艦砲射撃用標的として使用されることが決定した[54]。 6月25日に福岡県筥崎宮から日露戦争で活躍した「漣」の(無償)下附の願いが出された[55] が、既に用途が決まっていたために却下された[56]。 7月8日に訓令が出され、「漣丸」「霞丸」「皐月丸」は佐世保海軍工廠で8月10日までにボイラー、機械類、艤装品を取り外し、防水工事を行うことになった[57]。 これは8月中旬に第二艦隊の射撃用標的として使用することを予定していたためだった[58]。
公試成績
編集実施日 | 種類 | 排水量 | 回転数 | 出力 | 速力 | 場所 | 備考 | 出典 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1898年7月20日 | 標柱間試験 | 312.5英トン | 389.5rpm | 31.183ノット | テムズ河口、マプリン標柱間 | 吃水前部5ft0in、後部5ft6in | [10][60] | |
同上 | 3時間続航 | 同上 | 392.08rpm | 5,407.9実馬力 | 31.387ノット | テムズ河口、マプリン標柱附近 | 同上 | [10][60] |
1904年1月21日 | 1時間続航 | 27.864ノット | (佐世保) | [61] | ||||
不明 | 311英トン | 5,288馬力 | 27.9ノット | 日露戦争前 | [16] |
艦長
編集※艦長等は『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 回航委員長
- 竹内次郎 少佐:1899年2月14日 - 1900年6月22日
- 艦長
- 竹内次郎 少佐:1900年6月22日 - 1902年8月12日
- 井出謙治 少佐:1902年12月3日 - 1903年2月3日
- 近藤常松 少佐:1903年2月3日 - ?
- 相羽恒三 少佐:? - 1905年12月12日
- 駆逐艦長
- 相羽恒三 少佐:1905年12月12日 - 1906年3月14日
- 平岡善之丞 大尉:1906年3月14日 - 1906年7月12日
- (兼)角田貫三 大尉:1906年7月12日 - 1907年1月12日
- 山崎矩一 大尉:1907年1月12日 - 1907年9月12日
- (兼)三浦英晃 大尉:1907年9月12日 - 1907年10月22日
- 阿部真一郎 大尉:1907年10月22日 - 1908年1月15日
- (兼)山口毅一 大尉:1908年1月15日 - 1908年1月16日
- 阿部真一郎 大尉:1908年1月16日 - 1908年11月20日
- 酒井重之助 大尉:1908年11月20日 - 1909年12月1日
- 水木宇一 大尉:1909年12月1日 - 1911年5月23日
- 上原太一 大尉:1911年5月23日 - 1912年12月20日
- 杉浦正雄 大尉:1912年12月20日 - 1913年4月
脚注
編集出典
編集- ^ #日本駆逐艦史(1992)p.10
- ^ a b c d e f g 日本海軍艦船名考 1928, p. 95「105 漣 さざなみ Sazanami.」
- ^ a b c d e #日本近世造船史明治(1973)p.466
- ^ a b #M31達/3月(1)画像16-17、明治31年3月21日達第35号
- ^ a b #T1達/8月画像33-34、大正元年8月28日附達第12号
- ^ a b #T2達/3月(6)画像35-36、大正2年4月1日達第65号。
- ^ a b #海軍制度沿革8(1971)p.9
- ^ a b c d e f g h i j k l 『日本海軍史』第7巻、284-285頁。
- ^ a b #公文備考別輯雷電他/水雷艇駆逐艇製造(1)画像42、明治30年6月ロンドン発電報『「ヤッロー」四月三十日「ソーニクロフト」五月六日條約調印済』
- ^ a b c d e f #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(4)画像4、水雷艇漣回航報告
- ^ a b #T3達/8月画像14、達第117号
- ^ a b c d #日本近世造船史明治(1973)p.319、英国製造駆逐艦設計要領表
- ^ a b c d #帝国海軍機関史(1975)別冊、表12
- ^ a b c #帝国海軍機関史(1975)下巻p.114-115(第三巻 九四~九五頁)
- ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻p.142(第三巻 一二二頁)
- ^ a b #帝国海軍機関史(1975)下巻p.284、戦役従軍艦艇及其の最近高力運転成績。
- ^ a b #海軍制度沿革10-1(1972)pp.313-314、明治31年6月29日内令第49号。
- ^ a b #M31達/3月(1)画像6、明治31年3月16日達第27号
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)p.364、明治32年7月6日内令第63号。
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(6)画像7、明治32年7月8日電報「漣七月八日進水滞ナク済ム」。
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(6)画像14、明治32年8月28日漣回航委員長からの電報「八月二十八日領収シタリ」。
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(6)画像16、明治32年9月17日漣委員長竹内からの電報「九月十四日著九月十七日軍艦旗ヲ掲ク」。
- ^ a b #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(4)画像5
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(6)画像18、電報「漣ポーツマス著 三十二年十月十七日」。
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(4)画像7
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(4)画像12
- ^ a b #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(4)画像14
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(4)画像16
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(6)画像19、電報「漣マルタヨリポートセードヘ向ケ出ル 三十二年十二月十三日」。
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(4)画像21
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(4)画像25
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(4)画像26
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(4)画像31
- ^ a b #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(6)画像21、『英国出艇ヨリ「コロンボ」ニ至ル間復水器水管ノ漏洩ヨリ汽罐ニ及ボレシ損害ノ件ニ付報告』
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(6)画像22-24
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(6)画像24-25
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(6)画像33
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(6)画像34
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(6)画像38
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(7)画像1-2、明治33年3月26日官房第1155号「英国ニ於テ製造シ本邦ヘ向ケ回航中ノ水雷艇駆逐艇漣ハ本月廿四日佐世保軍港ヘ無事到着(以下略)」。
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(6)画像42
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(6)画像43
- ^ a b #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(6)画像44
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)p.378、明治33年5月15日内令第43号。
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)p.404、明治33年6月22日内令第75号、軍艦漣定員表。
- ^ 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、384頁。
- ^ #M38公文備考10/造修、試験、検査1(4)画像8、電報「試運転ノ為メニ長崎出艦 七月二十八日前九、一五発 漣艦長」
- ^ #T1達/8月画像32、大正元年8月28日附達第11号
- ^ #M45(T1)公文備考42/駆逐艦(3)画像26、11月8日漣駆逐艦長からの電報「六日朝曙ノ艦尾ニ接触シ艦首ヲ少シク破損ス」
- ^ a b c #M45(T1)公文備考42/駆逐艦(3)画像26、11月6日横鎮参謀からの電話連絡「今六日朝湾口ニ於テ対抗運動中橋立厳島ヲ過伴シツツアリシ第四駆逐隊ノ二番艦漣ハ一番艦曙ノ艦尾ニ衝突シ水線上ニ於テ艦首ヲ屈曲○生シ第一区ニ少許ノ浸水アリ八浬ノ速力ニテ単独帰港直ニ入渠セリ歓艦式参列ニ差支ナキ見込人員ニ損傷ナシ曙損傷ナシ」
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) 74頁。◎大正二年四月一日(達六六) 艦艇類別等級別表中軍艦ノ欄内「鈴谷」「葛城」ヲ、驅逐艦ノ欄内「文月」「皐月」「漣」「卷雲」「敷波」「霞」ヲ、水雷艇ノ欄内「第三十號」「第二十五號」「第五十五號」「第五十六號」「第五十七號」「第三十一號」「第三十二號」「第三十六號」「第三十七號」「第三十八號」「第三十九號」「第四十號」「第四十一號」「第四十三號」「第四十四號」「第四十五號」「第四十六號」「第六十二號」「第六十三號」「第六十四號」「第六十五號」ヲ削ル。
- ^ #T2達/3月(6)画像36、大正2年4月1日達第66号。
- ^ a b 『写真日本海軍全艦艇史』資料編、艦歴表10頁。
- ^ #T4公文備考44/処分画像15-16、大正4年4月17日発布官房機密第501号
- ^ #T4公文備考44/旧駆逐艦文月に関する件画像19-22、「駆逐艦漣下附願ノ件」
- ^ #T4公文備考44/旧駆逐艦文月に関する件画像14-15、大正4年7月13日官房第213号の2「廃駆逐艦無償下附ノ件」
- ^ #T4公文備考42/起工竣工画像10-11、大正4年7月8日佐鎮宛て電信「漣丸霞丸ハ機械罐艤装品取外シ防水工事ヲナシ又皐月丸モ同様トシ三隻トモ八月十日迄ニ竣工セシメラレタシ(終)」。
- ^ #T4公文備考42/起工竣工画像20-21、大正4年6月16日佐鎮長官宛電信「貴府保管ニ依ル皐月丸漣丸霞丸ヲ来ル八月中旬第二艦隊特殊射撃用標的船トシテ使用セシメラルル予定ニ付至急機関艤装品ヲ取外シ防水扉防水蓋ヲ密閉シ穴ヲ塞ク(1字不明)適宜ノ防水設備ヲ施し尚標的速力十八節ニ堪ユル被曳設備ヲ施工セシメラレ度其ノ予定竣工期日分リ次第通報アリタシ依命」。同画像18-19「本月十六日発電皐月丸漣丸霞丸ノ件速力十八節トアルヲ十五節ニ改ム尚第二艦隊被曳航都合アル故七月十八日迄ニ出来得ル分ダケ竣工セシメラレタシ」
- ^ #T6公文備考22/引揚、売却及処分(1)画像3、大正6年横廠第299号。
- ^ a b #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(6)画像9-10、「水雷艇駆逐艇漣公試運転成績報告」。
- ^ #M37公文備考6/駆逐艦の部(2)画像2、明治37年1月21日電報。同画像4。
参考文献
編集- アジア歴史資料センター
- 防衛研究所
- 「駆逐艦の部(2)」『明治37年 公文備考 巻6 艦船3』、JACAR:C06091539900。
- 「造修、試験、検査1(4)」『明治38年 公文備考 艦船1 巻10』、JACAR:C06091630700。
- 「駆逐艦の部(3)」『明治45年大正元年 公文備考 艦船 16 艦船遭難災害 1 巻42』、JACAR:C08020060300。
- 「起工竣工」『大正4年 公文備考 艦船2 巻42』、JACAR:C08020601300。
- 「処分」『大正4年 公文備考 艦船4 巻44』、JACAR:C08020604500。
- 「旧駆逐艦文月に関する件」『大正4年 公文備考 艦船4 巻44』、JACAR:C08020604600。
- 「引揚、売却及処分(1)」『大正6年 公文備考 艦船4 巻22』、JACAR:C08020928400。
- 「水雷艇駆逐艇雷、電、東雲、叢雲、曙、漣、夕霧、不知火、陽炎、薄雲、朧、霓製造に関する件(1)」『公文備考別輯 新艦製造書類 雷 電 東雲 叢雲 曙 漣 夕霧 不知火 陽炎 薄雲 朧 霓 1 明治29~32』、JACAR:C11081491600。
- 「水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(4)」『公文備考別輯 新艦製造書類 雷 電 東雲 叢雲 曙 漣 夕霧 不知火 陽炎 薄雲 朧 霓 2 明治29~32』、JACAR:C11081494500。
- 「水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(6)」『公文備考別輯 新艦製造書類 雷 電 東雲 叢雲 曙 漣 夕霧 不知火 陽炎 薄雲 朧 霓 2 明治29~32』、JACAR:C11081494700。
- 「水雷艇駆逐艇陽炎、漣、薄雲本邦へ回航に関する件(7)」『公文備考別輯 新艦製造書類 雷 電 東雲 叢雲 曙 漣 夕霧 不知火 陽炎 薄雲 朧 霓 2 明治29~32』、JACAR:C11081494800。
- 「3月(1)」『明治31年 達 完』、JACAR:C12070040500。
- 「8月」『大正元年 達 完』、JACAR:C12070064400。
- 「4月」『大正2年 達 完』、JACAR:C12070066000。
- 「8月」『大正3年 達 完』、JACAR:C12070067800。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』海軍大臣官房、1940年。
- 『日本駆逐艦史』 世界の艦船 1992年7月号増刊 第453集(増刊第34集)、海人社、1992年7月15日。ISBN 4-905551-41-2。
- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 福井静夫『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。