池田富保
池田 富保(いけだ とみやす、1892年5月15日 - 1968年9月24日[1])は、日本の映画監督・脚本家・俳優である。旅役者としてスタート、映画俳優「尾上 松三郎」(おのえ まつさぶろう)として映画のキャリアを始める[1]。晩年は映画監督を廃業し、映画俳優「望月 健佐」(もちづき けんすけ)として東映京都撮影所作品に出演した。
いけだ とみやす 池田 富保 | |
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尾上松三郎時代の池田 | |
本名 | 池田 民治 |
別名義 |
滝川 紅葉 池田 菁穂 長谷部 武臣 尾上 松三郎 俳優 初期 望月 健佐 俳優 晩年 |
生年月日 | 1892年5月15日 |
没年月日 | 1968年9月24日(76歳没) |
出生地 | 日本 兵庫県 |
死没地 | 日本 京都府京都市 |
職業 | 映画監督、脚本家、俳優 |
活動期間 | - 1960年 |
配偶者 | 尾上松之助の妹 |
主な作品 | |
『荒木又右衛門』 『水戸黄門』 |
人物・来歴
編集1892年(明治25年)5月15日(日曜日)、兵庫県美嚢郡中吉川村(現・三木市)[2]に池田民治として生まれる[1]。
旅役者であったが、日活のスター俳優の尾上松之助に発見されて映画俳優となる[1]。1921年(大正10年)、日活京都撮影所に入社、「尾上松三郎」を名のり[1]、同年3月10日公開の牧野省三脚本・監督、尾上松之助主演による大作『実録忠臣蔵』に出演する。このころ、松之助に勧められて匿名でシナリオを書いたところ、評判となる[3]。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災ののち、日活の東京・向島撮影所から現代劇部のスタッフが移転してくる流れのなかで、俳優から演出部に転向、1924年(大正13年)1月7日、『渡し守と武士』を監督して映画監督としてデビューした。同作は、「日活京都の時代劇」で初めて女形に代わって、女優を起用した作品である[1]。
1932年(昭和7年)8月、中谷貞頼専務による池永浩久所長以下200人解雇事件で日活を抜け、1933年(昭和8年)、池永がJ.O.スタヂオ内に設立した太秦発声映画の設立に参加し、同社でトーキー映画『博士の子』を監督する。やがてJ.O.スタヂオの東宝色が強くなるにつれ、日活に戻る。
1942年(昭和17年)4月の合併で設立した大日本映画(大映)に残留し、日活京都撮影所は大映京都撮影所と名を変えたが、同撮影所で同年、『伊賀の水月』を監督し、同年8月13日、同作は紅系で公開された。
脚本家としては「滝川紅葉」「池田菁穂」と名乗り、監督作ではなく脚本単独でも執筆した。
第二次世界大戦後は、1946年(昭和21年)、池田は大同映画を設立、橘公子らを大映から引き抜こうとしたが、映画製作をすることはできなかった。
1953年(昭和28年)8月5日公開の新東宝作品『鞍馬天狗と勝海舟』を最後に監督業を廃業、「望月健佐」名義で東映京都撮影所作品に俳優として出演した。
おもなフィルモグラフィ
編集俳優
編集- 『実録忠臣蔵』、監督・脚本牧野省三、主演尾上松之助、日活京都撮影所、1921年3月10日、浅草・富士館 - 「尾上松三郎」名義
- 『ひばり捕物帖 折鶴駕篭』、監督工藤栄一、東映京都撮影所、1960年7月6日 - 「望月健佐」名義