満洲リーグ戦
概要
編集1940年当時、満洲国(現:中国東北部)は日本(大日本帝国)との関係が深く、日本人が多かったため日本国内同様に野球人気が高かった。そこで当時の日本野球連盟は、1940年7月31日から8月23日までの夏季リーグ戦を丸々使って満洲遠征を行うことにした(当時は1シーズン制だったが、厳密には春季・夏季・秋季の3ステージに分かれていた)。第1回満洲リーグ戦と銘打ち、新京(現:長春)、奉天(現:瀋陽)、鞍山、大連の4都市を約1ヶ月かけて転戦した。全9球団が参加。優勝は東京巨人軍で、14勝2敗の圧勝。この年から公式球の質が落ち始めており、貧打戦が多く満洲リーグ戦だけでもノーヒットノーランが2度達成された(結局この1940年は、現在でも最多のシーズン5度のノーヒットノーランが記録されている)。ちなみに首位打者は、濃人渉(名古屋金鯱軍。打率 .365)だった[1]。
選手や関係者は大歓迎を受け、公式戦終了後にファン投票によるオールスター紅白戦まで行われるなど興行的には成功したが、列車での長距離移動による疲労や南京虫などの虫害に悩まされた。
翌年に「第2回満洲リーグ戦」が行われる予定だったが、戦局悪化のため中止となった。この後、2回目の海外遠征は1961年の沖縄(アメリカ占領下)まで待つことになる。