渡辺茂樹
渡辺 茂樹(わたなべ しげき、1951年2月10日[1] - 2014年3月15日[2][1])は、神奈川県川崎市生まれのキーボーディスト、音楽プロデューサー。 ザ・ドリフターズの加藤茶は従叔父(母親の従兄弟)に当たる[3]。
渡辺茂樹 | |
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生誕 | 1951年2月10日 |
出身地 | 日本神奈川県川崎市 |
死没 | 2014年3月15日(63歳没) |
学歴 | 東洋音楽大学付属高等学校(現在の東京音楽大学付属高等学校)中退[要出典] |
ジャンル | グループ・サウンズ・J-POP |
職業 | |
担当楽器 | |
活動期間 | 1967年 - 2014年 |
共同作業者 |
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人物・来歴
編集祖父は平茂夫(ジャズピアニスト)、母親は1954年に「東京ワルツ」を歌った歌手で後にピアノ教師となる千代田照子、弟は渡辺直樹、妹は南翔子という音楽一家に生まれる[3]。
川崎市立住吉中学校 ⇒ 東洋音楽大学付属高等学校(現在の東京音楽大学付属高等学校)中退[要出典]
高校2年生(16歳)であった1967年12月に「ザ・ワイルドワンズ」に加入し、電子オルガンとフルートを担当し、チャッピーの愛称で人気が急上昇した[3]。1971年秋、ザ・ワイルドワンズ解散後は陳信輝、大口広司と共にバンド「オレンジ」を結成し、「ロックンロールサーカス」というバンドにも加入した。1974年、スペクトラムの前身バンド「ミュージック・メイツ・プレイヤーズ」を結成した。キャンディーズのバックバンドとして、作曲・編曲でも活躍した。1990年代にアミューズの大所帯ボーカルグループ「エンジェルス」のプロデュースも担当した。「タイガース・メモリアル・クラブ・バンド」にも参加し、スーパー・グループ・サウンズとして自身の渡辺茂樹バンドを率いて活動した。2006年に1981年の再結成時には参加を見送ったザ・ワイルド・ワンズのライブに参加するなど自身の音楽活動もスケジュールの許す範囲内で続け、若手音楽家・ボーカリストの育成を中心とした活動を行った。2014年3月15日に死去した[2]。63歳没。
主な作品
編集- 石川ひとみ「秋が燃える」「夢番地一丁目」(編曲)
- 岡林信康「Gの祈り」(編曲)
- 尾崎紀世彦「365回目の恋」(編曲)
- サリー&シロー「愛の意識」(作編曲)
- キャンディーズ「つばさ」(作曲)
- 子門真人「ゴジラのお嫁さん」「ロックロックゴジラ」(編曲)
- トライアングル「冬が近い」(編曲)
- レイジー「ベイビー・アイ・メイク・ア・モーション」(編曲)
- ザ・ワイルドワンズ「この街のどこかに」(作曲)
- ザ・ワイルドワンズ'91「風に吹かれて」(編曲)など
主な音楽担当作品
編集参加バンド
編集- ザ・ワイルドワンズ
- オレンジ
- ロックンロールサーカス
- ミュージック・メイツ・プレイヤーズ
- タイガース・メモリアル・クラブ・バンド
- スーパー・グループ・サウンズ
ディスコグラフィ
編集ザ・ワイルドワンズ在籍時
編集- シングル
- アルバム
- バラの恋人/ザ・ワイルド・ワンズ アルバム 第3集
- リサイタル'68
- ワイルド・ワンズの世界
- ファイブ/ワイルド・ワンズ愛をいたう
- リサイタル'69
- きかなくてもいいのかな
- アンコール
- その他CD
- サヨナラ日劇ウエスタン・カーニバル(ザ・ワイルド・ワンズ)
- DVD
- 加瀬邦彦&ザ・ワイルドワンズ in 武道館
タイガース・メモリアル・クラブバンド在籍時
編集- シングル
- 君よ女神のままに
- ブルー・シャトゥを君だけに/G.Sが好きさ好きさ好きさ
- OH OH OH 〜We are the Winners〜
- アルバム
- タイガース・メモリアル・クラブ・バンド Ⅱ「ぼくと、ぼくらの夏」
- ビデオ
- 懐かしきラブ・ソング
スーパー・グループ・サウンズ
編集- 4曲入りCD
- ハロー・エヴリバディー
脚注
編集出典
編集- ^ a b 野村宏平、冬門稔弐「2月10日」『ゴジラ365日』洋泉社〈映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、45頁。ISBN 978-4-8003-1074-3。
- ^ a b “元ワイルドワンズ・渡辺茂樹さん死去”. デイリースポーツ. 2014年3月19日閲覧。
- ^ a b c 中村俊夫. “本日3月15日は、「チャッピー」のニックネームで知られる元ザ・ワイルド・ワンズのキーボード奏者・渡辺茂樹の命日(享年63歳)。”. 大人のミュージックカレンダー. 2019年2月27日閲覧。