清閑寺資房
鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。吉田経長の五男。正三位・参議。清閑寺家の祖・初代
清閑寺 資房(せいかんじ すけふさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。藤原北家勧修寺流吉田家、権大納言・吉田経長の五男。官位は正三位・参議。清閑寺家の祖。
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 嘉元2年(1304年) |
死没 | 康永3年/興国5年11月4日(1344年12月9日) |
官位 | 正三位、参議 |
主君 | 花園天皇→後醍醐天皇→光厳天皇→光明天皇 |
氏族 | 藤原北家勧修寺流吉田家庶流清閑寺家 |
父母 | 父:吉田経長、母:冷泉経頼の娘 |
兄弟 | 吉田定房、吉田隆長、吉田冬方、吉田頼国、資房、経雅、経耀、大炊御門冬氏室、大炊御門冬氏室、二条為藤室 |
子 | 資定 |
特記 事項 | 清閑寺家祖 |
経歴
編集吉田経長の五男として生まれ、異母兄・吉田定房の養子となる[1]。はじめ左衛門佐に任官し、元応2年(1320年)右少弁、元亨元年(1321年)正五位上・左少弁に叙任される。
元亨2年(1322年)従四位下・記録所寄人に叙任。元亨3年(1323年)因幡守・権右中弁に任ぜられ、元亨4年(1324年)従四位上・左中弁に叙任され、右宮城使を兼ねる。正中2年(1325年)に入り、左宮城使、装束司、右大弁を務め、正中3年(1326年)正四位下・左大弁。中宮亮・蔵人頭も務めた。
嘉暦2年(1327年)参議に任ぜられ公卿に列し、嘉暦3年(1328年)従三位・伊予権守に叙任されるが参議を辞退。元徳2年(1330年)には伊予権守を辞任した後は散位となった。元徳3年(1331年)正三位に至る。南北朝分裂後は北朝に仕えた。康永3年(1344年)11月4日に薨去。享年41。