清原枝賢
清原 枝賢(きよはら の えだかた/しげかた)は、戦国時代から安土桃山時代の儒者。明経博士。初名は頼賢、法名は道白。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 永正17年(1520年) |
死没 | 天正18年11月15日(1590年12月11日)[1] |
改名 | 頼賢→枝賢 |
別名 | 法名:三陽院雪菴道白 |
官位 | 正三位・宮内卿 |
主君 | 正親町天皇 |
氏族 | 広澄流清原氏 |
父母 | 清原業賢(良雄)、大宮時元女 |
兄弟 | 僧日信、僧尊信、平野長治、千秋刑部大輔室、今中越中守室 |
妻 | 不詳[注釈 1] |
子 | 国賢など |
経歴
編集清原業賢の子[3]。清原国賢、清原マリアの父。清原宣賢の孫にあたる[3]。
天正13年(1585年)には関白宣下を受けた豊臣秀吉のために、朝廷官職制度の難解な解説書「職原抄」をより平易にした「百官和秘抄[4]」を著す[5]。
官職・位階
編集『公卿補任』による。
- 大永5年(1525年)2月15日 - 大炊頭・主水正に任官。
- 享禄4年(1531年)6月20日 - 従五位下に叙任。
- 天文4年(1535年)7月29日 - 従五位上に昇叙。元服し、大外記に任官。
- 天文5年(1536年)2月2日 - 穀倉院別当に任官。
- 天文7年(1538年)3月8日 - 備後介に任官。
- 天文8年(1539年)1月5日 - 正五位下に昇叙。
- 天文9年(1540年)3月21日 - 明経博士に任官。
- 天文11年(1542年)1月5日 - 正五位上に昇叙。
- 天文13年(1544年)3月19日 - 伊勢権守に任官。
- 天文15年(1546年)7月23日 - 従四位下に昇叙。
- 天文17年(1548年)3月23日 - 伊予介に任官。
- 天文19年(1550年)1月7日 - 従四位上に昇叙。
- 天文20年(1551年)3月30日 - 正四位下に昇叙。
- 永禄2年(1559年)月日不明 - 弾正少弼に任官。
- 永禄2年(1559年)11月11日 - 少納言・侍従に任官。
- 永禄6年(1563年)7月28日 - 宮内卿に任官。
- 天正4年(1576年)6月29日 - 従三位に昇叙。
- 天正9年(1581年)4月9日 - 正三位に昇叙。
- 天正9年(1581年)4月11日 - 出家。
系譜
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 塙保己一 , ed (1985). 群書系図部集 6. 太田藤四郎. 続群書類従完成会. p. 427-428, 435-436
- 西田長男「「藤原惺窩伝補遺」続貂」『國學院雜誌』第63巻第2/3号、國學院大學、1962年3月、76-83頁、doi:10.11501/3365315、2023年11月13日閲覧。「細川幽斎之義母・細川家室後ニ此枝賢卿に被嫁。」