深瀬隆兼
深瀬 隆兼(ふかせ たかかね)は、戦国時代の武将。宍戸氏の家臣。安芸国祝屋城主[1]。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
改名 | 宍戸隆兼→深瀬隆兼 |
戒名 | 少林院殿前霜台紹天隆兼大禅定門 |
墓所 | 広島県安芸高田市甲田町深瀬 |
官位 | 弾正忠[1] |
主君 | 宍戸元家→元源→隆家 |
氏族 | 藤原北家道兼流宇都宮氏庶流深瀬氏 |
父母 | 父:宍戸元家[1] |
兄弟 |
宍戸元源[1]、隆兼、司箭院興仙[1]、 江田隆貫室[2]、佐々部通祐室[2] |
妻 | 長和出雲守家俊娘[1] |
子 | 家兼、直良 |
生涯
編集宍戸元家の子として誕生。当初は大内義隆より偏諱を受け宍戸隆兼と名乗っていた。永正元年(1504年)、父・元家が隠居し祝屋城に移り住むと従い、地名を取って深瀬の姓を名乗り、祝屋城主となった。弟・家俊(後の司箭院興仙)を養子としたが、家俊は山伏のように修験道の修行に明け暮れ、出奔の後に細川政元に仕えた。
天文9年(1540年)6月、出雲国の戦国大名・尼子氏を見限って、周防国の戦国大名・大内氏に寝返った毛利元就を討つべく、尼子氏当主・尼子詮久(後の尼子晴久)の命で新宮党の尼子久幸、尼子国久、尼子誠久らが大軍を率いて備後路を南下、祝屋城に迫った。隆兼は城の眼前の犬飼平や可愛河岸の石見堂の渡しを中心に防衛線を張り、尼子軍を食い止めた。予想外の抵抗に手を焼いた尼子軍は、この方面からの侵攻を諦め撤退した。
家督は嫡男・家兼が継いだ。
脚注
編集- ^ a b c d e f 田村哲夫編修 1980, p. 59.
- ^ a b 田村哲夫編修 1980, p. 60.
出典
編集- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。 国立国会図書館デジタルコレクション