浮田桂造
浮田 桂造(うきた けいぞう、1846年3月2日(弘化3年2月5日[1][2])- 1927年(昭和2年)9月16日[3])は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、大阪商業会議所会頭。旧姓・梅咲。
経歴
編集大和国(現奈良県)で梅咲善六の二男として生まれ[1]、1870年(明治3年9月)五龍円の販売で知られた[2]売薬卸小売業・先代浮田桂造の養子となり[1]、1871年(明治4年)家督を相続し浮田桂造を襲名した[1]。
1873年(明治6年)10月、南大組第6区安堂寺橋通4丁目戸長に就任[2][4]。南大組第6区3等戸長、第2大区6小区3等戸長、第2大区4小区2等戸長兼5等学区取締、書籍館掛、中学校事務掛、学監などを歴任[2][4]。1880年(明治13年)9月、南区会議員に選出され、臨時町村連合会議員を経て、同年10月、大阪府会議員に就任し、同常置委員も務めた[2][4]。南区教育会員、同衛生会員、同区会議員を務め、1884年(明治17年)5月、大阪府会議員に再選され、衛生会議員、育英小学校担当学務委員、教育会員、府会常置委員、同区部会副議長を務めた[2][4]。1887年(明治20年)12月、改選により常置委員、区部会副議長を退任し、1889年(明治22年)9月[注 1]、大阪市南区長に就任し1890年(明治23年)6月に辞任した[2][4]。
1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に大阪府第3区から出馬して当選し、その後、第2回総選挙でも当選し、衆議院議員を連続2期務めた[3]。
家業に従事し、1887年(明治20年)には天満紡績会社、大阪鉄道の設立に参画した[2][4]。その他、大阪舎密工業社長、東洋木材防腐取締役、関西水力電気取締役、共同火災海上運送保険監査役、北浜銀行監査役、浪速銀行監査役、大阪商業会議所議員、同副会頭、同会頭などを務めた[1][3]。
親族
編集- 妻 浮田よね(養父長女)[1]
脚注
編集注釈
編集- ^ 『人事興信録 第4版』う37頁では明治23年。
出典
編集参考文献
編集- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 木戸照陽編『日本帝国国会議員正伝』田中宋栄堂、1890年。
- 篠田正作編『明治新立志編』鍾美堂、1891年。