浜村蔵六 (三世)

江戸時代の篆刻家

三世 浜村 蔵六(さんせい はまむら ぞうろく、男性、寛政3年(1791年) – 天保14年8月18日1843年9月11日))は、江戸時代後期の日本の篆刻家である。

は籍、は子収、は初め南渓、晩年は訥斎・亀禅とした。はじめ小林姓だったが、のち金山を称した。江戸の人。

略伝

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幼少のころからを学び最も篆刻を好んだ。15歳のときに三体千字文を臨書。二世浜村蔵六はその雄々しく勢いある運筆を見て驚き、天賦の才を見抜いて篆刻の技を磨かせた。「つまらない石印材でも光玉のようになり、鈍刀をもっても鋭利となる」とその技量にいたく感服した。二世蔵六が没するが嗣子がおらず、文政2年(1819年)、28歳の時に代々継承されてきた亀紐古銅印を伝授され、浜村家を継いだ。以後、浜村家の名声を汚すことなく、その篆刻は絶技と評され、門戸をたたく者は絶え間なかったという。文政年間には関西に遊歴し、客の求めに応じて印を刻した。この時の印を集めて、岡本豊彦をはじめ頼山陽篠崎小竹斎藤拙堂などの名士らが序文を加えた印譜を刊行している。また青華磁器の印を作成し江戸にもたらした。潔癖症で庭の落ち葉はすべて拾い、居宅に埃ひとつ無かった。妻の金山耀も遷鶯と号し、画や篆刻をよくした。 子が無く、備前出身の塩見大澥が四世蔵六を継承した。なお、篆刻家として、はじめて帝室技芸員となった中井敬所は甥に当たり、その技を伝授している。

天保14年(1843年)8月没。享年54。霊山寺に葬られる。

出典

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関連項目

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