浅川城 (陸奥国)
浅川城(あさかわじょう)は、福島県石川郡浅川町にあった戦国時代の日本の城。
浅川城 (福島県) | |
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別名 | 青葉城 |
城郭構造 | 根小屋式山城 |
築城主 | 不明 |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 浅川氏 |
廃城年 | 1590年? |
位置 | 北緯37度5分12.5秒 東経140度25分25.4秒 / 北緯37.086806度 東経140.423722度座標: 北緯37度5分12.5秒 東経140度25分25.4秒 / 北緯37.086806度 東経140.423722度 |
地図 |
概要
編集浅川町の中心市街地から北東方向に約1キロメートルの城山と呼ばれる山に位置し[1][2][3][4]、青葉城(あおばじょう)の雅名で知られている[2][5]。青葉山城(あおばやまじょう)、城山館(しろやまだて)、八幡館(はちまんだて)ともいう[3]。城山は海抜約407メートル、比高約100メートルで急傾斜をなしており[1][2][3]、『日本城郭大系』は「中世初期からほとんど進歩した様子が見られない」縄張りと評価し、その理由を「傾斜が急であるため複雑な縄張りや石垣のようなものは必要としなかった」のではないかと推測している[2]。山頂部の主郭を中心とした山城部分と、南側山麓に位置する居館部分とで構成される典型的な根小屋式山城であり[1]、城山の中腹部には根宿の字が残る[2]。
康平年間(1058年 - 1065年)に石川有光の一族によって築かれたという説(『石川郡地史』[6])があるものの[3]、実際の築城の経緯は詳らかでない[7]。いずれにせよ、現存する遺構と史料の両面から、戦国時代末期には城が存在したこと、そして浅川氏が城主であったことは確かである[7]。浅川氏については甲斐源氏の浅利氏に結びつける系図があるが、史料上は確認できない[8]。戦国時代末期の浅川大和守、次郎左衛門父子については、「浅川村古老覚書」[9]「長泉寺他連署覚書写」[10]などにより石川氏と近親関係にあったと認められる[8]。しかし大和守以前については不明であり、浅川氏が通字として石川氏の「光」ではなく「純」を用いていることや浅利氏の伝承があることを考慮すると、元来石川氏とは別族であったところへ大和守が石川氏から入嗣した可能性もある[8]。
浅川城は交通の要衝に位置しており[4]、戦国時代末期には佐竹氏の北進に伴い度重なる攻防戦が繰り広げられた[2][3][7]。天正18年(1590年)の奥州仕置によって浅川氏は所領を失い、浅川城を退去することとなった[3][7]。その後、浅川氏は仙台藩の角田領主となった石川氏の重臣として江戸時代を通じ存続した[11]。第3代角田市長浅川純直は浅川氏の子孫。現代においては城山公園として整備されており、毎年8月16日に行われる花火大会では城山から「地雷火」と称する花火が打ち上げられる[12][13]。
脚注
編集- ^ a b c 佐伯 1999, p. 331.
- ^ a b c d e f 平井ほか 1981.
- ^ a b c d e f 小豆畑 1988.
- ^ a b 沼館 1980.
- ^ 佐伯 1999, p. 325.
- ^ 福島県石川郡学事関係者組合協議会編 編『石川郡地史』福島県石川郡学事関係者組合協議会、1901年、8頁 。
- ^ a b c d 佐伯 1999, pp. 328–331.
- ^ a b c 小豆畑 1999, pp. 285–287.
- ^ 浅川町史編纂委員会 1997, pp. 143–144.
- ^ 浅川町史編纂委員会 1997, pp. 113–114.
- ^ 小豆畑 1999, p. 323.
- ^ 浅川町史編纂委員会 1997, p. 162.
- ^ 庄司吉之助・小林清治・誉田宏編 編『福島県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系〉、1993年、400頁。
参考文献
編集- 小豆畑毅 著「戦国時代の浅川」、浅川町史編纂委員会 編『浅川町史』 第1巻(通史・各論編)、浅川町、1999年、247-324頁。
- 佐伯正廣 著「浅川の中世各城館」、浅川町史編纂委員会 編『浅川町史』 第1巻(通史・各論編)、浅川町、1999年、325-373頁。
- 浅川町史編纂委員会編 編『浅川町史』 第2巻(資料編)、浅川町、1997年。
- 児玉幸多・坪井清足監修、平井聖・村井益男・村田修三 編「浅川城」『日本城郭大系』 第3巻(山形・宮城・福島)、新人物往来社、1981年、547頁。NDLJP:12212045。
- 小豆畑毅 著「浅川城」、福島県教育委員会 編『福島県文化財調査報告書 第197集 (福島県の中世城館跡)』福島県教育委員会、1988年、109頁。NDLJP:12418805。
- 沼館愛三『会津・仙道・海道地方諸城の研究』伊吉書院、1980年、133-135頁。NDLJP:9538585。