浅井政信
戦国時代の武士。浅井氏の家臣。大和介
浅井 政信(あざい まさのぶ)は、戦国時代の武士。浅井氏の家臣。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天文12年(1543年) |
官位 | 大和介 |
主君 | 浅井亮政、久政 |
氏族 | 浅井氏 |
父母 | 浅井直政(または浅井直種) |
兄弟 | 政信、蔵屋 |
子 | 政澄、政重、政成、政連 |
来歴
編集父は浅井直政(浅井宗家・浅井忠政の嫡子)とされる。浅井亮政・久政に奏者として仕えた。
直政の子には政信の他に亮政と赤尾教政がいたという系譜がある。一方、別の系譜では、亮政は忠政の弟・浅井直種の実子であり、亮政は直政(従兄弟)の娘の蔵屋と婚姻し、婿養子となったと記されているのみであり、政信は登場しない。
赤尾教政の浅井家一門としての系譜も不詳である。
系譜
編集- 『諸家系図纂(続群書類従)[1]』では新介、大和守。永禄元年(1558年)没。浅井賢政の子、教政(新次郎、赤尾駿河守)、亮政(備前守)の弟。政澄(玄蕃允)、某(雅楽助)、某(斉之介)、某(木工助)の父。
- 『柳営婦女伝[2]』には記載がない。
- 『東浅井郡誌[3]』では「菅浦文書」中に天文15年(1546年)に海津に出陣したと記述のある「大和守殿」を政信とする「俗説」があるとしている。
- 『浅井三代記』では浅井新助(のち大和守政信)を浅井堅政の三男で、赤尾駿河守教政(新次郎)、備後守亮政(新三郎)の弟とする。また政信は永禄元年以前に亡くなり、嫡男は玄蕃允であるとしている。
- ウィキソースには、浅井三代記/浅井備前守先祖の事の原文があります。
- ウィキソースには、浅井三代記/浅井家臣大名分の者共一同して久政を退る事の原文があります。
出典
編集- ^ “国立公文書館デジタルアーカイブ”. 2024年4月19日閲覧。
- ^ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年4月19日閲覧。
- ^ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年4月19日閲覧。