浄久寺 (長野県阿智村)
長野県阿智村にある寺院
浄久寺(じょうきゅうじ)は長野県阿智村にある浄土宗の寺院。山号を米沢山、院号を泰栄院と称する。本尊は阿弥陀如来である。[1]
浄久寺 | |
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山門 | |
所在地 | 長野県下伊那郡阿智村駒場2195 |
位置 | 北緯35度26分50.0秒 東経137度44分17.6秒 / 北緯35.447222度 東経137.738222度座標: 北緯35度26分50.0秒 東経137度44分17.6秒 / 北緯35.447222度 東経137.738222度 |
山号 | 米沢山 |
院号 | 泰栄院 |
宗派 | 浄土宗 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 承久元年(1219年) |
開山 | 選冏上人 |
法人番号 | 4100005009717 |
歴史
編集縁起によれば、承久元年(1219年)選冏上人がこの地に寺を創立したのが、始まりと伝わる。天文元年(1532年)に岸誉上人が中興開山。
慶長6年(1601年)4代本誉上人の時、徳川家康の側室である宮崎筑後泰景の息女お仙(泰栄院)、同じく徳川家康に仕えていた、市岡氏の息女お松(芳杲院)が当寺の檀那となり、御朱印13石の寺として再興すると「蓮門精舎旧詞」に記載されている。
享保元年(1716年)中関村領主宮崎新七郎改易、これにより大檀那宮崎諸家ことごとく改易となる。[1]
享保7年(1722年)知恩院の別触寺院に任命される。享保11年(1726年)、小野川村80余戸が承久寺を離檀し宗円寺檀家になるという事件があり、古文書がのこる。寛保3年(1743年)火災により、本堂、庫裡等焼失。以前の記録類も焼失する。太平洋戦争に供出した半鐘に宝暦2年(1752年)17世法誉上人代鋳造と彫られていたことより、本堂、庫裡の整備も宝暦2年までに成ったと推定される。[1]宝暦11年(1761年)増上寺の別触寺院に任命される。昭和49年(1974年)中央自動車道が当寺境内を通過することになり、境内を縮小して整備を行った。[1]
境内
編集文化財
編集- 阿弥陀如来像 - 本尊
- 観世音菩薩像 - 脇侍
- 勢至菩薩像 - 脇侍
- 閻魔大王座像 - 寛文3年(1663年)造立。寄進者泉州堺出身駒場村飯田善太郎夫婦。
- 万治の名号石 - 万治4年(1661年)造立。寄進者飯田善太郎。寛文12年(1672年)中関村御年貢帳に大工善太郎があり、飯田市、立石寺本堂を建立した宮大工飯田善太郎と同一人物と推定される。
- 宮崎氏、市岡氏墓所 - 昭和43年(1968年)阿智村史跡に指定される。
- 卯の花の句碑 - 昭和43年(1968年)阿智村有形文化財に指定される。昔西行法師が諸国行脚の途中この地にきて、地に突き刺した杖が根ずき花を咲かせていると伝わる。
- 浄久寺徳本筆名号碑 - 昭和43年(1968年)阿智村有形文化財に指定される。徳本上人書の名号碑。
- 浄久寺の百日紅 - 昭和43年(1968年)阿智村天然記念物に指定される。別名さるすべり、指定時推定樹齢200年。[1]
所在地
編集長野県下伊那郡阿智村駒場2195
交通
編集引用
編集参考文献
編集- 『阿智村誌』下巻 阿智村誌編集委員会 阿智村誌刊行委員会発行 1984年(昭和59年)
- 『探訪 信州の古寺 浄土教・日蓮宗』 郷土出版社 1996年