津向文吉
津向 文吉(つむぎのぶんきち、文化7年(1810年) - 明治16年(1883年)10月5日)は、江戸時代後期・明治初期の博徒。甲斐国(山梨県)で活動した甲州博徒の一人。
略歴
編集甲斐国鴨狩津向村(現:山梨県西八代郡市川三郷町)に生まれる[1]。生家は鴨狩津向村の村名主を務める宮沢家[1]。鴨狩津向村は甲斐・駿河方面の富士川舟運における物流拠点で、文吉は活動拠点の重なる竹居村(笛吹市)の竹居安五郎と抗争を繰り広げた[1]。
弘化2年(1845年)頃には鰍沢において竹居安五郎と出入り(=抗争)が発生する[2]。弘化2年には駿河の博徒・清水次郎長の叔父にあたる和田島太右衛門との出入りでは子分10人を率いて駿河庵原川(静岡県静岡市清水区)まで出陣する[1]。ところがこれは三馬政(さんま まさ)の計略であると言われ、まだ駆け出しであった次郎長の調停により出入りは回避された[1]。文吉はこれを縁に次郎長との関係を深める[1]。
嘉永2年(1849年)には博打の咎により捕縛され流刑となり、同年4月から9月まで三宅島に滞在する[2]。同年9月には八丈島の末吉村に移され、明治2年(1869年)に恩赦されるまで20年間流人として過ごした[1]。恩赦後は生地で木賃宿の「つむぎ屋」を営む[1]。また、恩赦後は次郎長を尋ねたという[1]。1883年(明治16年)に73歳で死去[1]。
市川三郷町内には文吉の墓石があり、1921年(大正10年)9月の建立で、建立者として宮沢姓の二名の人物の名を記している[3]。文吉の墓石には隣接して子分・飯窪定五郎の墓石も所在している[3]。2010年(平成22年)に実施された調査では双方の墓石とも摩耗が激しく、判読が困難な状態となっている[4]。また、個人所蔵の位牌も残されている[1]。戒名は「普顕院英山文雄居士」[1]。
大正時代に『山梨県志』編纂のために山梨県下の自治体に配布された調査書「町村取調書」では文吉の人物像について「義侠ニシテ他愛ノ心深シ」と記している[1]。