波多野元清
戦国時代の武将。丹波国の有力国人
波多野 元清(はたの もときよ)は、戦国時代の武将。室町幕府10代将軍・足利義稙から偏諱を受け、稙通(たねみち)と名乗り、室町幕府の評定衆にも列せられたとされるが、稙通という名や評定衆就任の事実は一次史料では見られない。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 享禄3年(1530年) |
別名 | 孫四郎、孫右衛門(通称)[1]、稙通 |
幕府 | 室町幕府 |
氏族 | 丹波波多野氏 |
父母 | 父:波多野清秀 |
兄弟 | 元清、香西元盛、柳本賢治 |
子 | 秀忠 |
生涯
波多野清秀の子として誕生した。
初め仙甫寿登の弟子となり名を寿浩、号を養賢と名乗ったが、15歳の時に波多野氏を継ぐことになり還俗したという[2][注釈 1]。
父・清秀が永正元年(1504年)6月24日[4]に没した後、9月の薬師寺元一の乱の討伐に参加する[5]。細川政元暗殺後の細川澄元と細川高国の争いでは、高国方に転じている[6]。
永正5年(1508年)6月には多紀郡の酒井氏を酒井合戦で破り[7][8]、7月には中沢(長沢)元綱を福徳貴寺で戦死させ[9]、波多野氏を丹波有数の勢力へと発展させた。また、細川高国から信頼を得て、長弟の香西元盛は永正4年(1507年)に死去した香西元長の名跡を、同じく次弟の柳本賢治は永正17年(1520年)に死去した柳本長治の名跡を継いでいる[10][注釈 2]。
大永6年(1526年)、香西元盛が細川尹賢の讒言を信じた細川高国に殺害されると、柳本賢治と共に細川晴元に呼応して蜂起し、攻め寄せてきた高国方の軍を破る。翌大永7年(1527年)には病を患っていたようで[12]、当初は賢治と子の秀忠のみが上洛しており[13]、桂川原の戦いにも不参加だった可能性がある。
脚注
注釈
出典
- ^ 馬部 2018, pp. 87–88.
- ^ a b c 馬部 2018, p. 117.
- ^ 馬部 2018, p. 118.
- ^ 『幻雲文集』。
- ^ 『不問物語』。
- ^ 『不問物語』。
- ^ 永正5年推定、6月26日付細川高国感状(「波々伯部家文書」)。
- ^ 丹南町史編纂委員会 1994, p. 585.
- ^ 丹南町史編纂委員会 1994, p. 567–568, 611.
- ^ 馬部 2018, pp. 117–119.
- ^ 『二水記』大永6年11月5日条。『細川両家記』大永6年7月13日条。
- ^ 『二水記』大永7年2月13日条。
- ^ 『二水記』大永7年2月16日条。
- ^ 『厳助往年記』享禄3年6月2日条。『二水記』享禄3年6月8日条。