沼本 房家(ぬもと ふさいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将

 
沼本房家
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正8年(1580年
改名 景直(初名)→房家
別名 通称:新右衛門
主君 赤松氏浦上宗景宇喜多直家
氏族 沼本氏
兄弟 房家豊国
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略歴

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沼本氏は美作国弓削庄の国人で、源氏の末裔を称していた。沼本兼家赤松氏に仕えた事から、歴史の表舞台に現れる事となる[1]

はじめ播磨国戦国大名赤松氏に仕えたが勢力を伸ばした浦上氏に従い、その知勇兼備の勇将ぶりを買われて重臣となった。ところが、浦上家臣の宇喜多直家が謀反を起こした際に、直家は主君・浦上宗景と景直の離間策を弄し、謀反を疑われた景直は宇喜多氏に帰順して、その家臣となった。

以後は、宇喜多氏の配下として、永禄10年(1567年三村氏家臣・植木秀長の籠もる斉田城攻防戦に参加。また、元亀元年(1570年)、毛利氏家臣・香川光景らの籠もる美作高田城を三浦氏残党と共に攻めて、攻略した。天正2年(1574年)には、浦上氏と組んで宇喜多氏に対抗した三浦貞広と戦い敗れるも、後に和睦した毛利氏の支援を得て貞広を従属させた。その後、宇喜多氏は毛利氏に従属すると、天正6年(1578年)に毛利氏に従い、播磨上月城攻略戦に出陣。この上月城の戦いで、城に籠もる尼子勝久ら尼子再興軍を滅ぼした。

しかし、主君・直家は従属先を織田氏に変え、毛利氏と敵対する事となり、天正8年(1580年)、毛利方の備中国加茂城攻めの最中に、反撃に遭い討死した。

家督は弟・豊国が継いだ。

脚注

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  1. ^ 美作古簡集註解, 第 1 巻 194P