河上公(かじょうこう)は、古代中国の伝説上の人物[1][2]前漢文帝期の隠者王弼と並ぶ『老子注釈者の筆頭[2]

人物

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姓名不詳[1]。「河上」は「黄河のほとり」を意味する[3]河上丈人とも呼ばれる[注釈 1]

葛洪神仙伝』河上公伝、および葛玄『老子道徳経序訣』に、以下の説話が伝わる[5]

前漢文帝の時代、河上公は黄河のほとりにを結び、『老子』を読んでいた[1]。同じころ、文帝や臣下も『老子』を読んでいたが[注釈 2]、誰も意味を説明できない箇所が複数あった[1]。すると、侍郎の裴楷が[注釈 3]、河上公なら説明できるだろうと進言した[1]。文帝は河上公に使者を送ったが、河上公は拒絶した[1]。そこで文帝は自ら行幸して河上公を訪ね、河上公の高慢さを指摘した[1]。すると、河上公は座したまま空中浮遊した[1]。文帝は河上公が神仙であると気づき、謹んで教えを請うた[1]。河上公は文帝に、1700年前に書いたという秘伝の注釈書を授けると、たちまち姿を消した[1]

『老子』河上公注

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老子』の注釈書『老子道徳経河上公章句』、通称「河上公注」が現存する[2]

実際の著者は不明。成立年代は漢代から魏晋南北朝の間で諸説あり[7]、段階的に形成されたとする説もある[8]

河上公注と王弼注は、解釈だけでなく本文や受容者も異なる[2]。王弼注が哲学的・抽象的で知識人に多く受容されたのに対し、河上公注は道教的・養生論的で道士に多く受容された[2]。河上公注の特色は「治国」(政治思想)と「治身」(自分の身体を治める思想)の両立にある、とも言われる[1][9]

日本では、江戸時代林希逸注や王弼注が主流になるまで、すなわち平安時代から江戸初期まで、河上公注が主流だった[10]国宝含む古鈔本古活字本が現存する[11][12]

日本語訳に 谷中 2022 がある。

関連項目

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脚注

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注釈

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  1. ^ 河上丈人は『史記楽毅伝に登場し、魏晋以降に河上公と同一視される[4]
  2. ^ 当時は黄老思想にもとづく「文景の治」が敷かれ、『老子』が重んじられていた。
  3. ^ 世説新語』に登場する西晋裴楷中国語版をモデルにした人物と考えられる[6]。言い換えれば、この説話は西晋以降に成立したと考えられる[6]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 藤原 1994, p. 65f.
  2. ^ a b c d e 蜂屋 2021, p. 284ff.
  3. ^ 蜂屋 2021, p. 290.
  4. ^ 蜂屋 2021, p. 295.
  5. ^ 蜂屋 2021, p. 293.
  6. ^ a b 蜂屋 2021, p. 294.
  7. ^ 松井 2012, p. 197.
  8. ^ 楠山 1979, p. 125f.
  9. ^ 古勝 2012, p. 9.
  10. ^ 松井 2012, p. 200f.
  11. ^ 谷中 2022, p. i.
  12. ^ 山城 1999.

参考文献

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