池辺吉十郎

幕末から明治前期の武士

池辺 吉十郎(いけべ きちじゅうろう、旧字体池邊 吉十郎1838年2月5日天保9年1月11日) - 1877年明治10年)10月26日)は幕末から明治前期の武士士族志士教育家陸軍軍人。本名は重章。熊本藩士の子として熊本に生まれる。武士志士として活動していたが、西南戦争では、西郷隆盛軍の下で、熊本隊の隊長として奮戦するも捕らわれ長崎で処刑された。

池辺 吉十郎
渾名 肥後の西郷
生誕 1838年2月5日
天保9年1月11日
日本の旗 日本肥後国熊本県熊本市
死没 1877年明治10年)10月26日
日本の旗 日本長崎県
所属組織  大日本帝国陸軍
子女 池辺三山
墓所 熊本県玉名市
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生涯

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幼少期

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天保9年1月11日1838年2月5日)に熊本藩士の子として生まれる。本名は重章(しげあき)。また、藩校で学ぶ。翌年には世話役や組役なども任せられた。その後、家督を継ぎ、また、京都守護も命じられる。

武士時代

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26歳になると、第二次長州征伐の際に小倉出兵に従った。その後、池辺三山(吉太郎)を授かる。

教育家時代

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35歳になると、一家で横島村(現・熊本県玉名市横島町)へ出る。横島村で私塾を開き、門下を集めながら、弟子たちに教育。しばらくすると、村民から多くの尊敬を受けた。また、政治家である西郷隆盛武士桐野利秋との交流も得ていた。それだけでなく、4年間、鹿児島に遊学し、帰郷すると、また、私塾を開いた。

西南戦争時代

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西南戦争が始まると、村田新八と話し合い、西郷隆盛に味方しようとしたが、議論をするごとに話がまとまらないため、自ら熊本隊を編成した。後に約1000人もの人数を率いる熊本隊の隊長となった。熊本での戦いの際には、各地で奮戦。敗戦し政府に捕らわれ長崎に移され処刑。

墓所

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子の池辺三山が、長照寺に仮埋葬していた遺骨と遺髪を持ち帰り、熊本県玉名市に移し埋葬。現在は横島町文化財保存顕彰会が管理している(2008年12月22日文化財指定)。墓は、吉十郎の本名である「池辺重章」と彫刻されている。

経歴

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登場作品

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外部リンク

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