池尻暉房
池尻 暉房(いけがみ てるふさ、1762年8月24日(宝暦12年7月5日) - 1852年9月30日(嘉永5年8月17日))は、江戸時代の公家。池尻家6代当主。権大納言[1]。
時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 1762年8月24日(宝暦12年7月5日) |
死没 | 1852年9月30日(嘉永5年8月17日) |
戒名 | 珠玉光院賢恵常然 |
墓所 | 報恩寺 |
官位 | 正二位、参議、権大納言 |
主君 | 後桜町天皇→後桃園天皇→光格天皇→仁孝天皇→孝明天皇 |
氏族 | 池尻家 |
父母 |
父:清閑寺益房 養父:池尻定治 母親:吉田良延の娘 |
兄弟 | 清閑寺昶定、梅小路定肖 |
妻 | 山科敬言の娘 |
子 | 池尻定孝、池尻延房、岡崎国均室、ヤチ(紀俊和室)、保子(西大路隆枝室)、万里小路局 |
生涯
編集権大納言・清閑寺益房の子として生まれ、兵部少輔・池尻定治の養子となる[1]。
1794年(寛政6年)に従三位となり、1796年(寛政8年)に治部卿、1805年(文化2年)に参議となる。権中納言を経て、1824年(文政7年)に権大納言にすすみ、同年辞任、正二位となる[1]。
1852年9月30日(嘉永5年8月17日)、死去。享年91。墓所は京都市上京区の報恩寺。戒名は珠玉光院賢恵常然[1][2]。