江幡広光
日本の江戸時代末期の武士
時代 | 江戸時代末期(幕末) |
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生誕 | 天保9年(1838年)? |
死没 | 元治元年6月16日(1864年7月19日) |
別名 | 通称:貞七郎、別名:定彦 |
墓所 | 京都市東山区 霊山墓地 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 水戸藩 |
父母 | 父:江幡矩美 |
略伝
編集水戸藩士・江幡矩美の長男。文久3年(1863年)、水戸藩主徳川慶篤の上洛に随行、水戸藩・一橋家警衛世話役として京に滞在し、禁門を守衛する。
当時は公武合体派諸侯の中心人物が一橋慶喜であり、その仲介実行役で攘夷派を駆逐しようと図っていたのが一橋家家老並平岡円四郎と見られていた。元治元年6月16日、林忠五郎ら数名とともに、平岡を京都町奉行所与力長屋(千本組屋敷)外で斬殺した。
平岡は即死だったが、一橋家使役家人川村恵十郎により、林忠五郎とともに殺された。広光は重傷を負ったのち自害したといわれる。