江古田文化劇場
江古田文化劇場(えこだぶんかげきじょう)は、かつて存在した日本の映画館である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10]。第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)11月、東京都練馬区大字江古田(現在の旭丘1丁目)の江古田駅前に開館した[4]。学生街の映画館として親しまれたが、1984年(昭和59年)に閉館した[10][11]。略称・通称は江古田文化(えこだぶんか)[12][13][14]。江古田駅南口の「旭丘文化通り商店会」は同館に面した通りにあり[15]、通りの命名は同館に由来する[16]。竹内緑郎と旅行かばん『江古田スケッチ』に歌われることでも知られる[14]。
種類 | 事業場 |
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市場情報 | 消滅 |
略称 | 江古田文化 |
本社所在地 |
日本 〒176-0005 東京都練馬区旭丘1丁目71番6号 |
設立 | 1947年11月 |
業種 | サービス業 |
事業内容 | 映画の興行 |
代表者 | 代表・支配人 溝口末春 |
関係する人物 |
古屋照夫 山田春作 稲垣弘司 |
特記事項:略歴 1947年11月 開館 1984年 閉館 |
沿革
編集データ
編集概要
編集第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)11月、東京都練馬区大字江古田2237番地(現在の旭丘1丁目71番6号)の江古田駅前に開館した[4][18]。同館の所在した練馬区江古田は、同年8月1日に従来の板橋区から分離して練馬区を形成した地域であり、中野区江古田の北東に位置する。江古田駅は、そもそも1922年(大正11年)に旧制武蔵高等学校の設立とともに設置された駅で、同校は現在も、武蔵大学あるいは武蔵中学校・高等学校として同地にあり、同駅近辺には、日本大学芸術学部(1939年麹町区から移転)、武蔵野音楽大学(1929年設立)もあって、同館は学生街の駅至近の映画館として立地した[17][18]。練馬区内には、戦前から練馬駅前にあった練馬映画劇場(現在の練馬1丁目6番22号)が戦後も稼働したほか、同館開館後の1950年(昭和25年)6月には大字東大泉812番地(現在の東大泉3丁目17番)に大泉映画館(のちの大泉名画座、経営・円内一男)、1952年(昭和27年)6月には下石神井2丁目1298番地(現在の石神井町6丁目)に石神井会館(のちの石神井映画劇場、経営・渡辺軍蔵)がそれぞれ新設された[4]。当初の同館の経営は溝口末春の個人経営、支配人も溝口が兼ねた[4]。木造一階建、観客定員数250名の比較的小規模の映画館であり、当時の興行系統は東宝および松竹の作品を上映した[4]。同区内では、練馬映画劇場が松竹・大映系、石神井会館が大映・東映系、大泉映画館が新東宝・東宝系と棲み分けが行われていた[4]。
同館は、1952年前後には『江古田文化劇場NEWS』と題した週報を発行していた[19]。現存する同第75号によれば、『霧笛』(原作大佛次郎、監督谷口千吉、製作・配給東宝、1952年3月5日公開[20])、『黄色い鞄』(原作井上靖、監督弓削進、製作松竹大船撮影所、同年5月8日公開[21])、『東京騎士傳』(監督瑞穂春海、製作松竹大船撮影所、同年5月8日公開[22])が3本立で上映されている[19]。翌1953年(昭和28年)には、同週報は『江古田文化ウィークリー』と改称した[12]。同年に『悲剣乙女桜』(監督野淵昶、製作宝塚映画製作所、配給東宝、1953年3月5日公開)が同館で公開されたときには、戦前の旧作である『月下の若武者』(監督中川信夫、製作東宝映画京都撮影所、1938年12月1日公開)と『選挙戦の裏表』という題の啓蒙映画の3本立で上映された[12]。新作の『逃亡地帯』(監督杉江敏男、製作東京映画、配給東宝、1953年3月19日公開[23])と、戦時中に製作・公開された『伊那の勘太郎』(監督滝沢英輔、製作東宝映画、1943年1月3日公開[24])を『伊那節仁義』と改題しての2本立という番組もあった[12]。1950年代後半には区内の映画館は急増、1960年(昭和35年)には9館に増加し、同館と練馬映画劇場、石神井映画劇場、大泉名画座のほか、ネリマ東映劇場(豊玉北町5丁目15番地)、練馬文化劇場(練馬北町1丁目142番地)、石神井東映(上石神井1丁目415番地)、大泉東映八光座(東大泉町506番地)、関町(関町3丁目111番地)が割拠した[5]。高須基仁の回想によれば、1960年代後半、同館で加賀まりこが主演する『乾いた花』(監督篠田正浩、製作松竹大船撮影所、1964年3月1日公開)を観たという[13]。
その後急速に同区内の映画館は減少し、1967年(昭和42年)までには大泉名画座や八光座、石神井東映が閉館[6]、1970年(昭和45年)までには練馬文化劇場が閉館し、合計5館になった[7]。当時の同館は日活系に変わっているが、1971年(昭和46年)11月に日活が「日活ロマンポルノ」を開始して成人映画に舵を切り、その前後に同区内の映画館が激減、練馬駅前の老舗・練馬映画劇場と同館の2館のみになる[7][8]。この時期に、同館は東宝・松竹および洋画(輸入映画)の上映館に変わった[7][8]。練馬映画劇場は非日活系の成人映画館になったが、同館は名画座的劇場でありつづけた[8]。1975年(昭和50年)10月に発行された『キネマ旬報』10月上旬秋の特別号では、グラビアページの『われらの映画館 東京篇』で同館の取材記事が掲載された[25]。この時期に観客定員数を140名に縮小している[9]。イラストレーターの宮崎祐治によれば、この時期の同館には2階があり、卓球場になっていたという[26]。宮崎は、同館で 『書を捨てよ町へ出よう』(監督寺山修司、製作人力飛行機舎、配給ATG、1971年4月24日公開[27])、『ボクサー』(監督寺山修司、製作東映東京撮影所、配給東映、1977年10月1日公開[28])、『田園に死す』(監督寺山修司、製作人力飛行機舎、配給ATG、1974年12月28日公開[29])の3本立を観ている[26]。1977年(昭和52年)11月9日にビクター音楽産業(現在のビクターエンタテインメント)が発売した竹内緑郎と旅行かばんのシングル『江古田スケッチ』に同館は登場し、「江古田文化の深夜映画に涙流した」と歌われた[14]。1979年(昭和54年)前後には、同館も成人映画館になっている[9]。
1984年(昭和59年)には閉館した[10][11]。同館の経営は閉館まで一貫して、溝口末春の個人経営であった[4][5][6][7][8][10]。跡地にはパチンコ店「ミナミ江古田店」が建ったが、同店は2013年(平成25年)9月25日に閉店し、同年12月27日には「ジェイクラブ江古田店」が開店して現在に至る(2014年4月)[17][18]。練馬映画劇場は1989年(平成元年)12月に閉館している。
脚注
編集- ^ 年鑑[1942], p.10_34.
- ^ 年鑑[1943], p.453.
- ^ 年鑑[1951], p.334.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 総覧[1955], p.15.
- ^ a b c d e f g h 便覧[1961], p.23-24.
- ^ a b c d e f g h 便覧[1967], p.19.
- ^ a b c d e f g h i j 便覧[1970], p.51.
- ^ a b c d e f g h i j 便覧[1973], p.47.
- ^ a b c d e f g h 名簿[1979], p.43.
- ^ a b c d e f g h i j 名簿[1984], p.42.
- ^ a b c 名簿[1985], p.38.
- ^ a b c d 江古田文化ウィークリー 表・裏、江古田文化劇場、1953年発行、2014年7月7日閲覧。
- ^ a b 高須[2000], p.152.
- ^ a b c 江古田スケッチ、歌詞GET, 2014年7月7日閲覧。
- ^ 旭丘文化通り商店会、練馬区、2014年7月7日閲覧。
- ^ 映画フィルムの現像職人・今田長一、映画保存協会、2014年7月7日閲覧。
- ^ a b c 東京都練馬区旭丘1丁目71番6号、Google ストリートビュー、2014年4月撮影、2014年7月7日閲覧。
- ^ a b c d 江古田文化劇場、Goo地図、1947年・1963年撮影、2014年7月7日閲覧。
- ^ a b 江古田文化劇場NEWS No.75、江古田文化劇場、1952年発行、2014年7月7日閲覧。
- ^ 霧笛、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。
- ^ 黄色い鞄、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。
- ^ 東京騎士伝、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。
- ^ 逃亡地帯、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。
- ^ 伊那の勘太郎、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。
- ^ キネ旬[1975], p.88.
- ^ a b キネ旬[1991], p.29.
- ^ 書を捨てよ町へ出よう、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。
- ^ ボクサー、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。
- ^ 田園に死す、日本映画データベース、2014年7月7日閲覧。
参考文献
編集- 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行
- 『映画年鑑 昭和十八年版』、日本映画協会、1943年発行
- 『映画年鑑 1951』、時事通信社、1951年発行
- 『映画年鑑 1955 別冊 全国映画館総覧』、時事通信社、1955年発行
- 『映画年鑑 1961 別冊 映画便覧』、時事通信社、1961年発行
- 『映画年鑑 1967 別冊 映画便覧』、時事通信社、1967年発行
- 『映画年鑑 1970 別冊 映画便覧』、時事通信社、1970年発行
- 『映画年鑑 1973 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1973年発行
- 『キネマ旬報』10月上旬秋の特別号、キネマ旬報社、1975年10月発行
- 『映画年鑑 1979 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1979年発行
- 『映画年鑑 1984 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1984年発行
- 『映画年鑑 1985 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1985年発行
- 『キネマ旬報』7月下旬号、キネマ旬報社、1991年7月発行
- 『極楽女優』高須基仁、『サンデー毎日』第79巻第62号通巻4418号所収、毎日新聞社、2000年12月
関連項目
編集外部リンク
編集画像外部リンク | |
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江古田文化劇場NEWS No.75 1952年発行(アーカイブ) | |
江古田文化ウィークリー 表 1953年発行(アーカイブ) | |
江古田文化ウィークリー 裏 1953年発行(アーカイブ) |
- 東京都練馬区旭丘1丁目71番6号 - 2014年4月時点の同館跡地(Google マップ・Google ストリートビュー)
- 江古田文化劇場 - 1947年・1963年時点の航空写真(Goo地図 マウスを左上部メニュー「古地図」に合わせる)
- 江古田劇場 - 昭和毎日(毎日新聞社)[リンク切れ]