永井直廉
永井 直廉(ながい なおかど、元文4年(1739年) - 寛政4年閏2月6日(1792年3月28日)[1])は、江戸幕府の旗本。通称は主計、弾正、伊織、官位は従五位下・筑前守[2][3]。
永井直允の孫で、永井直令の長男。母は土屋利起の養女(土屋利意の娘)。遠山景晋の兄で、遠山景元の伯父に当たる。妻は島津久芬の娘[2][4]。子に娘(平賀貞愛妻)、娘(窪田正扶妻)、娘(永井直堯妻)、養子に永井直堯(吉益忠徴次男)。
略歴
編集宝暦4年(1754年)10月15日、16歳の時に将軍徳川家重に初御目見を果たす[2]。同12年(1762年)9月28日、書院番になる[2]。
天明2年(1782年)12月4日に永井家を継ぐ。同6年(1786年)1月11日に使番になり、同年12月18日に布衣の着用を許される[2]。
天明7年(1787年)10月15日、田沼意次が城地を没収されることになった際、久留敬武とともに任務を受けて、田沼家領地の遠江国相良藩に赴く[2]。
寛政元年(1789年)閏6月12日、長崎奉行に就任。同年7月1日従五位下に叙任して筑前守を名乗る[2][3]。
同4年(1792年)閏2月6日、長崎にて死去。享年54。法名は良義。長崎の哠台寺に葬られる[2][3]。墓石には「朝散大夫長崎尹大江公之墓」と彫られている[5]。
奉行在職当時、経済的に疲弊していた長崎のため、同僚の水野忠通とともに、
- 石銭徴収の廃止
- 貧困者に資金を貸して仕事に就かせる「市中産業方」の設置
- 凶作に備えて籾米を購入して貯蔵
- 80歳以上の高齢者に銀1枚を支給
などの施策をし、長崎住民たちから感謝されていた。永井が病気になった際、社寺には全快を祈願する町民が絶えず、在留唐人たちも諏訪社に永井の全快を祈ったという[6]。
脚注
編集- ^ 「永井直廉」『日本人物レファレンス事典 江戸時代の武士篇』日外アソシエーツ、715頁。
- ^ a b c d e f g h i 『新訂 寛政重修諸家譜』第十 株式会社続群書類従完成会、286頁。
- ^ a b c 『国史大辞典』第10巻 吉川弘文館、581頁。
- ^ 『新訂 寛政重修諸家譜』第十 株式会社続群書類従完成会、284頁。岡崎寛徳著 『遠山金四郎』 講談社現代新書、37頁。藤田覚著 『遠山景元 老中にたてついた名奉行』 山川出版社、5頁。
- ^ 本田貞勝著 『長崎奉行物語 サムライ官僚群像を捜す旅』 雄山閣、115頁。
- ^ 本田貞勝著 『長崎奉行物語 サムライ官僚群像を捜す旅』 雄山閣、114頁。
参考文献
編集- 岡崎寛徳著 『遠山金四郎』 講談社現代新書 ISBN 978-4-06-287974-3
- 木村直樹著 『長崎奉行の歴史 苦悩する官僚エリート』 角川選書 ISBN 978-4-04-703574-4
- 藤田覚著 『遠山景元 老中にたてついた名奉行』 山川出版社 ISBN 978-4-634-54853-4
- 本田貞勝著 『長崎奉行物語 サムライ官僚群像を捜す旅』 雄山閣 ISBN 978-4-639-02346-3
- 『新訂 寛政重修諸家譜』第六 株式会社続群書類従完成会
- 『国史大辞典』 第10巻 吉川弘文館、ISBN 4-642-00510-2
- 『日本人物レファレンス事典 江戸時代の武士篇』日外アソシエーツ ISBN 978-4-8169-2632-7