永井 直哉(ながい なおや〈なおちか〉、嘉永3年9月4日1850年10月9日) - 明治45年(1912年1月11日)は、大和櫛羅藩の第2代藩主。永井家宗家13代当主。子爵

永井直哉

下総高岡藩井上正瀧の五男。正室飛鳥井雅典の娘・芳子。子は房子(長女)、直厚(次男)、千鶴雄、貞子(秋山定輔室、次女)、誠など。官位は従五位下信濃守。幼名は伝八郎。慶応元年(1865年)10月、先代の永井直壮が死去した際、その養嗣子として跡を継いだ。同年12月19日、大坂加番を命じられる。慶応2年、従五位下信濃守に叙任する。慶応4年(1868年)1月19日、上洛する。明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により藩知事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県により免官された。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[1]。明治45年(1912年)1月11日、63歳で死去した。墓所は中野区功運寺

系譜

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尾張徳川家初代徳川義直の男系子孫にあたる。

脚注

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  1. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
櫛羅永井家初代
1884年 - 1912年
次代
永井直厚