水野勝種

備後福山藩4代藩主。水野宗家4代。水野勝貞の長男

水野 勝種(みずの かつたね)は、備後国福山藩の第4代藩主。水野宗家4代。第3代主・水野勝貞の長男で、母は瀬尾氏。

 
水野勝種
水野勝種
時代 江戸時代前期
生誕 寛文元年5月9日1661年6月5日
死没 元禄10年8月23日1697年10月7日
改名 勝慶(初名)、勝種
別名 民部(通称)
戒名 萬輝院殿前作州太守忠嶽全功大居士
墓所 広島県福山市若松町の水野家菩提寺の曹洞宗賢忠寺
官位 従四位下美作守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉
備後福山藩
氏族 水野氏
父母 水野勝貞:瀬尾氏
兄弟 鶴、与曽、勝種
正室酒井忠清の娘・長姫
勝岑
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生涯

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水野勝種公墓所(在福山)

福山で生まれる。寛文3年(1663年)に父の死により数え3歳で跡を継ぐ。寛文8年(1668年)に徳川家綱に初御目見し、延宝3年(1675年)に従五位下に任官して美作守を名乗る。

藩政の功績としては、沼隈町の磐台寺観音堂をはじめ、領内の神社仏閣の再興や造営を行ったことが挙げられる。天和元年(1681年)、越後騒動により断罪された松平綱国を預かる。元禄2年(1689年)および元禄5年(1692年)に奥詰を勤める。

元禄10年(1697年)に江戸で死去し、初代藩主の勝成らと同じく福山の賢忠寺に葬られる。

7人もの男子に恵まれたが、長男から六男まではいずれも早世、末子の勝岑(七男)が跡を継いだが、数え2歳で早世したため、水野氏による福山藩政は終焉を迎えた。

系譜

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父母

正室

側室

  • 瀬尾氏

子女

参考文献

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外部リンク

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