毛利時親
鎌倉時代末期から南北朝時代の武士 (?-1341)
毛利 時親(もうり ときちか)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将で安芸毛利氏の当主。毛利経光の四男[1]。大江広元の曾孫にあたる。戦国時代に中国路の覇者となる安芸毛利氏の祖である。吉田郡山城の築城者とされ、若き頃の楠木正成に兵法(闘戦経)を教えたという伝承もある。
時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 暦応4年/興国2年7月6日[1][2](1341年8月26日[1]) |
改名 | 時親→了禅(法名)[1][2] |
別名 | 四郎(通称)[1][2] |
戒名 | 了禅大禅定門[1] |
墓所 | 広島県安芸高田市吉田町吉田の毛利氏歴代墓所 |
官位 | 従五位下[1][2]、修理亮[1][2]、刑部少輔[1][2] |
幕府 | 鎌倉幕府 六波羅評定衆[1]→室町幕府 |
主君 | 守邦親王→足利尊氏 |
氏族 | 毛利氏 |
父母 | 父:毛利経光[3] |
兄弟 | 基親[4]、時光[4]、政光[5]、時親、親忠[5]、親宗[5]、娘(少輔助太郎政広室[5]) |
妻 | 正室:亀谷局(長崎泰綱の娘)[1][2] |
子 | 貞親[1][2]、親元[1][2]、広顕[1][2]、貞繁[1][2] |
生涯
編集文永7年(1270年)、父より越後佐橋荘南条、安芸吉田荘の地頭職を譲り受ける[1][6][注釈 1]。六波羅評定衆を務め、河内に邸宅を持った。当時の執権・北条時宗の偏諱を受けて時親と名乗ったとみられるが、この時期の活動については不詳である。
元徳2年(1330年)、安芸吉田荘の地頭職を孫の親衡に譲ると[7]、元弘3年/正慶2年(1333年)の鎌倉幕府滅亡後に隠居するが、南北朝の争乱が勃発すると、子の貞親、孫の親衡は南朝方に付き、越後の毛利領を拠点に活動したため、安芸の地頭職を取り上げられ苦境に立たされた。しかし時親は曾孫の元春(師親)を北朝方の足利尊氏に味方させ、自らは建武3年(1336年)に安芸吉田荘に下向し[1]、貞親、親衡の北朝方への帰順を取り成し、ともに安芸に下向させることで、安芸における毛利氏の勢力の維持を図った。
建武4年(1337年)、曾孫元春へ安芸吉田荘を譲渡し[8]、暦応4年(1341年)に死去した。
永和2年(1376年)、毛利元春が足利義満に対して本領安堵を申し出た書状では、建武3年(1336年)7月に時親より譲与されたとあり、義満と今川貞世より署判を得た[7]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。
- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編「国立国会図書館デジタルコレクション 905冊」『史料綜覧』 巻5、朝陽会、1928年4月29日。 NCID BN06830334。OCLC 502586028。全国書誌番号:47000824 。「毛利家文書」
- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本史料』 第6編之3、東京帝国大学、1903年3月24日。 NCID BN11358329。OCLC 834707052。全国書誌番号:73016127。「毛利文書」 国立国会図書館デジタルコレクション
- 東京帝国大学文学部史料編纂所編『大日本史料』 第6編之4、東京帝国大学、1904年7月21日。 NCID BN11358329。全国書誌番号:73016127。「毛利文書」 国立国会図書館デジタルコレクション
- 時山弥八編『国立国会図書館デジタルコレクション 稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592 。
- 防長新聞社山口支社 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。 国立国会図書館デジタルコレクション
外部リンク
編集- 東京大学史料編纂所 … データベース検索から『大日本史料』『史料総覧』の閲覧ができる。