毛利政明
毛利 政明(もうり まさあき)は、長門国清末藩の第5代藩主。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政元年12月1日(1790年1月15日) |
死没 | 文化15年3月26日(1818年5月1日) |
改名 | 増山正朝、毛利政明 |
別名 | 帯刀(通称) |
戒名 | 幽峯院蓉仙 |
墓所 | 東京都港区高輪の泉岳寺 |
官位 | 従五位下讃岐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 長門清末藩主 |
氏族 | 増山氏→毛利氏 |
父母 |
父:増山正賢、母:不詳 養父:毛利匡邦 |
兄弟 | 増山正寧、政明、大岡忠移継室、増 |
子 | 養嗣子:元世 |
生涯
編集寛政元年(1789年)12月1日、伊勢長島藩主・増山正賢の次男として江戸で生まれる。初名は増山正朝(まさとも)。文化14年(1817年)10月9日、毛利匡邦の養子となった。第4代藩主・匡邦の長男・匡民の早世により、父・正賢が匡邦の従兄(政明が第2代藩主・毛利匡広の曾孫)に当たることから養子に迎えられた。同年2月15日、将軍徳川家斉に御目見する。文化15年(1818年)3月4日、匡邦の隠居により家督を継いだ。しかし、同年3月26日(異説として6月24日)に死去した。享年30。
家督を継いでからの早すぎる死は、自殺であるとも、増山家からの養子である政明の家督相続に反対する家臣団の毒殺であるとも言われている。