毛利広漢
毛利 広漢(もうり ひろくに )は、長州藩一門家老である阿川毛利家の7代当主。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保7年(1722年) |
死没 | 宝暦9年(1759年) |
改名 | 諱:広氏、広景、広漢 |
別名 | 通称:宮内、兵庫、下野 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 阿川毛利家 |
父母 | 父:毛利広規 |
兄弟 | 広漢、就貞 |
妻 | 正室:毛利元連の娘 |
子 | 就禎 |
生涯
編集享保7年(1722年)、長州藩主毛利家一門、阿川毛利広規の長男として生まれる。藩主毛利宗広の偏諱「広」の字を授かる。寛保2年(1742年)、父の死去により家督を相続する。藩主毛利宗広、重就に仕え、加判役(家老)を務めた。宝暦元年(1751年)に藩主宗広が没し、長府藩から藩主として重就を迎える。重就の世子を定めるにあたり、実子を後継者にしたい重就と、先代宗広の遺言として有馬純峯(毛利重広)を養子に迎えたい広漢ら一門家老が対立する。重就が折れて、純峯を藩主世子として迎えることとなる。
宝暦3年(1753年)、領内に郷校時習館を創設して学問を奨励した。宝暦4年(1754年)、対立していた藩主重就に処罰され、隠居して家督を嫡男の就禎に譲る。
宝暦9年(1759年)死去。享年38。
参考文献
編集- 小川國治著 「毛利重就」