母里武兵衛
母里 武兵衛 (もり ぶへえ、生年不詳-1569年)は、戦国時代の武将。黒田家の家臣である[1]。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 永禄12年(1569年) |
主君 | 黒田職隆→黒田孝高 |
氏族 | 母里氏 |
父母 |
父:母里小兵衛 母:母里能登守の娘 |
兄弟 | 雅楽助義時 |
略歴
編集永禄12年(1569年)、黒田氏と赤松政秀との間で起きた青山・土器山の戦いにおいて、先の戦で傷を負い満身創痍であった武兵衛は「これ程の傷を負ったものに出撃せよとは死ねということか」と官兵衛に反駁したが、「おそらくそうなるだろう」とだけ返された[要出典]。武兵衛は先頭を切って赤松軍に突撃し、奮戦の末、7本の槍で貫かれ討ち死にした。
脚注
編集- ^ 黒田家譜
参考文献
編集- 黒田家譜-第一巻(1982)