段 煨(だん わい、? - 209年)は、中国後漢末期の武将・政治家。字は忠明[1]涼州武威郡の人。

段煨
後漢
大鴻臚光禄大夫・閿郷侯
出生 生年不詳
涼州武威郡
死去 建安14年(209年
拼音 Duàn Wēi
忠明
主君 董卓曹操
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事跡

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はじめ董卓に仕えた。初平2年(191年)、反董卓連合の孫堅胡軫呂布らが敗れ、華雄は戦死した。孫堅の進攻に備えるため、段煨は董卓の命により中郎将として華陰に駐屯した[2]。段煨による華陰の統治は、農業に勤しみ略奪を行わないなど堅実なものであった[3]。董卓死後数年に渡り華陰に留まっていたと見られる。

興平2年(195年)冬、李傕郭汜の乱を避けて献帝長安より華陰に避難してくると、寧輯将軍となっていた段煨は衣服などを提供して供応し、自陣に迎えようとした。しかし、献帝を護衛していた楊定とは不仲であり、その攻撃を受けたため果たせなかった[4]。ただこの間も、段煨は自らに私心はないことを示すために、献帝や百官への奉仕を怠らなかった。その後、李傕・郭汜は段煨を救援して楊定を挟撃したため、楊定は荊州へと敗走した[2]

またこの頃、李傕配下であった賈詡は、同郡出身の縁故から段煨を頼ってきている。段煨は賈詡の才を恐れながらも優遇したが、賈詡はその内心を見抜いて、まもなく張繡の下へと去った。しかし、残された賈詡の家族を段煨は丁重に扱っている[5]

建安3年(198年)、謁者僕射裴茂が李傕討伐に向かうと、段煨はその指揮下に入り李傕を誅滅した[2]。その後は、入朝して大鴻臚光禄大夫となり、建安14年(209年)に死去した[6]

物語中の段煨

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小説『三国志演義』でも史実同様に、洛陽へ向かおうとしていた献帝を華陰で饗応している。その後、曹操に敗れて敗走した李傕を討ち取り、併せて李傕の一族200余名を捕え、許都で曹操に献上した。この功績により盪寇将軍に任命されている。これ以降は登場しない。

  1. ^ 盧弼、『後漢書集解』
  2. ^ a b c 後漢書』巻72列伝62董卓伝本伝
  3. ^ 三国志』魏書10賈詡伝注『典略』
  4. ^ 『後漢書』董卓伝注袁宏『漢紀』によると、段煨は楊定への警戒から、献帝の輿を迎える際に、馬上から下りずこれを迎えた。そのため、楊定と親しかった侍中种輯が段煨は叛逆すると讒言し、さらに楊定や董承は「郭汜が700騎を率いて段傕の陣営に入ろうとしています」と告げたため、献帝は段煨の陣営から離れたという。
  5. ^ 『三国志』賈詡伝本伝
  6. ^ 『三国志』賈詡伝注『献帝紀』

参考文献

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