武知勇記
武知 勇記(たけち ゆうき、1894年(明治27年)7月10日[1] - 1963年(昭和38年)10月11日)は、日本の政治家。伊予市名誉市民・勲一等瑞宝章受章[2]。
1955年頃撮影 | |
生年月日 | 1894年7月10日[1] |
出生地 | 日本 愛媛県伊予郡南伊予村下三谷 |
没年月日 | 1963年10月11日(69歳没) |
出身校 | 明治大学 |
前職 |
愛媛県議会議員 愛媛県松山市議会議員 |
所属政党 |
(憲政会→) (立憲民政党→) (翼賛政治会→) (大日本政治会→) (日本進歩党→) (無所属→) (民政旧友会→) (新日本政治経済調査会→) (日本再建連盟→) (自由党→) (日本民主党→) 自由民主党 |
称号 |
愛媛県伊予市名誉市民[2] 勲一等瑞宝章[2] |
第6代 郵政大臣 | |
内閣 | 第1次鳩山内閣 |
在任期間 | 1954年12月10日 - 1955年3月19日 |
選挙区 | 愛媛県第1区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1958年5月23日 - 1960年10月24日 |
選挙区 | 愛媛県第1区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1952年10月2日 - 1955年1月24日 |
選挙区 | 愛媛県第1区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1930年2月21日 - 1945年12月18日 |
生涯
編集愛媛県伊予郡南伊予村下三谷(現・伊予市下三谷)出身[1][2]。1913年(大正2年)北予中学校(現・愛媛県立松山北高等学校)卒業[1]。学生時代から政治家を志し明治大学法律科卒業後帰郷[1]。1918年(大正7年)憲政会公認で松山市会議員に立候補し当選[1]、翌1919年(大正8年)には愛媛県会議員にも立候補して当選[1]。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に愛媛1区から立憲民政党公認で立候補し初当選[1][3]。戦前は廣田内閣の文部参与官、小磯内閣の内務政務次官、翼賛政治会衆院部総務等を歴任。商工委員会に属していた関係から岸信介と親しくなった。 1944年(昭和19年)には愛媛新聞代表取締役社長に就任し、翌年の1945年(昭和20年)まで社長職を務めたが政務多端を理由に辞任。
戦後大日本政治会を母体にして結成された日本進歩党に参加したが翼賛選挙で推薦候補として当選したため公職追放。追放解除後他の旧民政党系の政治家とともに民政旧友会を結成したが、岸信介とともに保守新党を結成しようと主張したため、国民民主党と合同して保守新党を結成しようと考えていた大麻唯男や松村謙三らと対立した。これが原因となって民政旧友会は分裂し、大麻・松村らは新政クラブを結成し武知や三好英之らは新日本政治経済調査会を結成した。
新日本政治経済調査会に旧民政党系以外の政治家も加えて結成された日本再建連盟の公認で武知は1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙に立候補して当選し政界に復帰し[3]、その後は岸と行動をともにして自由党に入り[1][3]、1954年(昭和29年)日本民主党の結成に参加[1][3]。同年第1次鳩山一郎内閣の郵政大臣に就任したが[1][2]、翌年の第27回衆議院議員総選挙では現職閣僚ながら落選した[1]。1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙では自由民主党の公認で立候補して当選し再び政界に復帰したが[1][3]、健康を害して1960年(昭和35年)に政界から引退[1]。当選回数は通算8回。肺癌のため69歳で死去。 自由民主党の元国会議員である萬井武臣(宏池会)は甥にあたる。
著書
編集- 『医薬分業読本』
- 『日本の伊予人』
脚注・出典
編集参考文献
編集- 愛媛新聞社 編 『愛媛県百科大辞典 下巻』 愛媛新聞社、1985年(昭和60年)6月1日発行
- 宮川隆義 編 『議会開設百周年記念 コンピュータ編集版 歴代国会議員経歴要覧』 政治広報センター、1990年(平成2年)11月24日第1刷第1版発行、ISBN 4-88094-422-X
議会 | ||
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先代 高瀬伝 |
衆議院懲罰委員長 1960年 |
次代 中村寅太 |
公職 | ||
先代 塚田十一郎 |
郵政大臣 第6代:1953年 - 1954年 |
次代 松田竹千代 |