武廟六十四将
武廟六十四将(ぶびょうろくじゅうよんしょう)は、唐朝以前の中国史を代表する六十四人の名将。782年、顔真卿の建議を受けて徳宗が命じた史館の史家達によって選出され、武成王廟(太公望の廟)に武廟十哲と共に合祀された。後の時代には幾度か改変された。
六十四将
編集- 将軍・王翦
- 太傅/高密侯・鄧禹
- 大司馬/広平侯・呉漢
- 征西大将軍/夏陽侯・馮異
- 建威大将軍/好畤侯・耿弇
- 執金吾/雍奴侯・寇恂
- 左将軍/膠東侯・賈復
- 伏波将軍/新息侯・馬援
- 太尉/新豊侯・段熲
- 太尉/槐里侯・皇甫嵩
- 丞相・王猛
- 太尉/北平王・長孫嵩
- 太尉/永寧郡公・王僧弁
- 司空/南平公・呉明徹
参考文献
編集- 《新唐書》志第五 礼楽五より
『建中三年,礼儀使顔真卿奏:“治武成廟,請如《月令》春、秋釋奠。其追封以王,宜用諸侯之数,楽奏軒懸。”詔史館考定可配享者,列古今名将凡六十四人図形焉:越相国范蠡,斉将孫臏,趙信平君廉頗,秦将王翦,漢相国平陽侯曹参、左丞相絳侯周勃、前将軍北平太守李広、大司馬冠軍侯霍去病,後漢太傅高密侯鄧禹、左将軍膠東侯賈復、執金吾雍奴侯寇恂、伏波将軍新息侯馬援、太尉槐里侯皇甫嵩,魏征東将軍晋陽侯張遼,蜀前将軍漢寿亭侯関羽,呉偏将軍南郡太守周瑜、丞相婁侯陸遜,晋征南大将軍南城侯羊祜、撫軍大将軍襄陽侯王濬,東晋車騎将軍康楽公謝玄,前燕太宰録尚書事太原王慕容恪,宋司空武陵公檀道済,梁太尉永寧郡公王僧辯,北斉尚書右僕射燕郡公慕容紹宗,周大冢宰斉王宇文憲,隋上柱国新義公韓擒虎、柱国太平公史万歳,唐右武候大将軍鄂国公尉遅敬德、右武衛大将軍邢国公蘇定方、右武衛大将軍同中書門下平章事韓国公張仁愿、兵部尚書同中書門下三品中山公王晙、夏官尚書同中書門下三品朔方大総管王孝傑;斉相管仲、安平君田単,趙馬服君趙奢、大将軍武安君李牧,漢梁王彭越、太尉条侯周亜夫、大将軍長平侯衛青、後将軍営平侯趙充国,後漢大司馬広平侯呉漢、征西大将軍夏陽侯馮異、建威大将軍好畤侯耿弇、太尉新豊侯段熲,魏太尉鄧艾,蜀車騎将軍西郷侯張飛,呉武威将軍南郡太守孱陵侯呂蒙、大司馬荊州牧陸抗,晋鎮南大将軍当陽侯杜預、太尉長沙公陶侃,前秦丞相王猛,北魏太尉北平王長孫嵩,宋征虜将軍王鎮悪,陳司空南平公呉明徹,北斉右丞相咸陽王斛律光,周太傅大宗伯燕国公于謹、右僕射鄖国公韋孝寛,隋司空尚書令越国公楊素、右武候大将軍宋国公賀若弼,唐司空河間郡王李孝恭、礼部尚書聞喜公裴行倹、兵部尚書同中書門下三品代国公郭元振、朔方節度使兼御史大夫張斉丘、太尉中書令尚父汾陽郡王郭子儀。』