武安州
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ベトナムの武安州
編集本節では、唐代に現在のベトナムハイフォン一帯に設置された武安州について述べる。
701年(大足元年)、唐により武安州が立てられた。742年(天宝元年)、武安州は武曲郡と改称された。758年(乾元元年)、武曲郡は武安州の称にもどされた。武安州は嶺南道の安南都護府に属し、武安・臨江の2県を管轄した[1]。
内モンゴルの武安州
編集本節では、遼代に現在の内モンゴル自治区赤峰市敖漢旗東部に設置された武安州について述べる。
遼の太祖のとき、木葉山のふもとに住んでいた漢人を捕らえて唐の沃州の地に移し、城を建てて杏堝新城とした。さらに遼西から移住者を増やして新州と改めた。990年(統和8年)、新州は武安州と改称された。武安州は中京道の大定府に属し、沃野県を管轄した[2]。
四川の武安州
編集本節では、元代から明初にかけて、現在の四川省会理市の南に設置された武安州について述べる。
少数民族により龍泥城と呼ばれた。1277年(至元14年)、元により管民千戸が立てられた。1280年(至元17年)、武安州と改められた。武安州は会川路に属した[4]。
1382年(洪武15年)、明により武安州は武安県に降格した。1391年(洪武24年)、武安県は再び武安州に昇格した。1394年(洪武27年)、武安州は廃止された[5]。