正映マキノキネマ
正映マキノキネマ(しょうえいマキノキネマ、1932年2月 設立 - 同年3月29日 解散)は、かつて京都に存在した映画会社である。高村正次と立花良介が「マキノ再興」を目指して、かつて牧野省三が建設した「御室撮影所」に設立したが、資金難で2か月で解散した。正映マキノプロダクション(しょうえいマキノプロダクション)とも呼ばれた[1]。略称正映マキノ(しょうえいマキノ)。
略歴・概要
編集1932年(昭和7年)2月、大衆文芸映画社の高村正次と、半年前まで帝国キネマの専務取締役であった立花良介[2]が、「マキノ本家」と提携し、旧マキノ・プロダクションの「御室撮影所」に設立したのが、この「正映マキノキネマ」である。同撮影所を「正映マキノ撮影所」とし、撮影所長に牧野省三(1929年死去)の妻・知世子が就任した[3]。
ところが、同年2月4日、スタジオ中を整備していたところ、原因不明の出火により同撮影所は事務所、工作所、食堂、衣裳部屋を残して全焼、焼失する。急造のバラックスタジオで、牧野の長男・マキノ正博監督が『二番手赤穂浪士』ほかを撮影したが、配給網が確立できず、資金難となり、3月末に解散となる。『二番手赤穂浪士』の配給権を日活に売却、代金を従業員への解散手当てとした[3]。また、後藤岱山監督の『仇討兄弟鑑』を大衆文芸映画社との製作提携作とし、「正映マキノキネマ」作品の青山正雄監督の『喧嘩道中記』とともに、菅原通済が当時経営していた洋画配給会社「国際映画社」が配給し、同年5月12日に公開された。製作した映画はすべてサイレント映画であった。
さらに半年後には、高村正次が映画製作を断念した東亜キネマを買収、同社の社長を辞任した南喜三郎とともに、宝塚キネマ興行を御室に設立、「御室撮影所」を「宝塚キネマ撮影所」と改称して稼動させた。「正映マキノキネマ」の残党の受け皿となった[3]。
専属スタッフ・キャスト
編集1932年(昭和7年)2月、正映マキノキネマの創設に参加したスタッフ・キャストの一覧である[4]。
- 脚本
- 監督
- 技術部
- 俳優
嵐幸三郎、市川米十郎、嵐冠三郎、マキノ登六、林誠太郎、若松文男、都賀清司、松浦築枝、鈴村京子、北岡よし江、毛利安子
- 文芸部長
- 企画部長
フィルモグラフィ
編集- 1932年
脚注
編集参考文献
編集- 『日本映画監督全集』、キネマ旬報社、1976年 / 改訂版 1980年
- 『日本映画興亡史 マキノ一家』、石割平、ワイズ出版、2000年4月17日 ISBN 4898300243
関連項目
編集外部リンク
編集- 1932年 公開作品一覧 542作品 - 日本映画データベース
- 正映マキノ - 日本映画情報システム (文化庁)