橘義通
平安時代中期の貴族・歌人。父は橘為義(丹波守)。正四位下・筑前守。子に橘資成(大和守、従五位上、子に資隆(左衛門尉)、資親(造酒佑))、家成(伊勢守)
橘 義通(たちばな の よしみち)は、平安時代中期の貴族・歌人。丹波守・橘為義の子。官位は正四位下・筑前守。
時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 治暦3年2月17日(1067年4月3日) |
官位 | 正四位下・筑前守 |
主君 | 一条天皇→三条天皇→後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇 |
氏族 | 橘氏 |
父母 | 父:橘為義 |
兄弟 | 義通、俊通 |
妻 | 小野伝説娘、藤原挙直娘 |
子 | 為仲、資成、義清 |
経歴
編集寛弘5年(1005年)正月、蔵人所雑色に補任され[1]、寛弘7年(1007年)8月の除目で左兵衛少尉に任ぜられた[2]。寛弘9年(1012年)4月、蔵人・兵部丞であった義通は禁色を聴される[3]。長和2年(1013年)の春頃には、式部丞に任ぜられた。
左兵衛尉を経て、乳母子として敦成親王家の蔵人を務めるなど、親密な繋がりがあった親王が後一条天皇として即位した後の寛仁3年(1019年)3月、昇殿を聴された[4]。治安3年(1023年)頃には備後守を務めている。また、長元4年(1031年)には少納言に義通なる人物が就いているが、橘義通かどうかは不明である[5]。
その後、主殿頭を経て、筑前守に転じるが、在任中の治暦3年(1067年)2月17日、卒去。『後拾遺和歌集』に二首が入集する勅撰歌人でもあった。
系譜
編集脚注
編集参考文献
編集- 『尊卑分脉 第四篇』吉川弘文館、2007年