橋本清吉
日本の内務官僚、政治家
橋本 清吉(はしもと せいきち、1898年(明治31年)8月14日 - 1955年(昭和30年)7月2日)は、日本の内務官僚・政治家。元衆議院議員(改進党、当選1回[1])。
橋本 清吉 はしもと せいきち | |
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生年月日 | 1898年(明治31年)8月14日 |
出生地 | 三重県 |
没年月日 | 1955年(昭和30年)7月2日 |
出身校 | 東京帝国大学 |
所属政党 | 改進党 |
選挙区 | 旧三重2区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1953年4月19日 - 1955年1月24日 |
経歴
編集東京帝国大学を卒業後内務省に入り、その後、1939年(昭和14年)9月5日 - 1940年(昭和15年)12月23日福島県知事、1940年(昭和15年) - 1942年(昭和17年)第2・3近衛内閣の警保局長を務める。1942年(昭和17年)6月10日、岡山県知事に就任[2]。1944年8月1日、知事を依願免本官となり退官した[3]。
敗戦後GHQにより公職追放となったが、その後復帰し、衆議院議員選挙に旧三重2区から立候補する。1952年(昭和27年)の総選挙では無所属で出馬したが次点で落選[4]。次の1953年(昭和28年)の総選挙に改進党の公認候補として出馬し当選[4]。衆議院議員を1期務め、中央常任委員として活動。1954年7月に改進党を離党し、小山倉之助、山下春江らと新党同志クラブを結成[5]、11月末に中野四郎、町村金五らが加わり新党同志会を結成した[6]。1955年2月の第27回総選挙において無所属から出馬したが落選した[4]。正五位 勲四等を授章。
1955年、56歳で逝去。
埋葬場所は多磨霊園である。
栄典
編集- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[7]
脚注
編集関連項目
編集参考文献
編集- 朝日新聞選挙本部編『朝日選挙大観』朝日新聞社、1997年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』大蔵省印刷局、1990年。
外部リンク
編集官職 | ||
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先代 横溝光暉 |
岡山県知事 官選第28代:1942年 - 1944年 |
次代 小泉梧郎 |
先代 藤原孝夫 |
内務省警保局長 1940年 - 1941年 |
次代 今松治郎 |
先代 君島清吉 |
福島県知事 官選第37代:1939年 - 1940年 |
次代 江辺清夫 |