橋口兼三
幕末の薩摩藩士、明治期の裁判官,政治家。元老院議官、貴族院勅選議員。
橋口 兼三(はしぐち けんぞう、1828年8月24日(文政11年8月15日[1]) - 1900年(明治33年)2月25日[2])は、幕末の薩摩藩士、明治期の裁判官・検察官・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。旧名・与一郎[1]。
経歴
編集薩摩藩士・橋口与三次の長男として生まれる[3]。
明治2年2月(1869年)薩摩藩の藩政改革時に新設の糺明局総裁に就任し、以後、参政、権大参事を歴任[4]。
廃藩置県後、明治政府に出仕し、明治4年11月15日(1871年12月26日)美々津県参事に就任[1]。同年12月7日 (1872年1月16日)司法省七等出仕に転じた[1][5]。
明治5年4月7日(1872年5月13日)司法権少判事となる[1]。以後、司法権中検事、司法中検事、権中検事、中検事・大坂上等裁判所在勤、検事、判事・大坂控訴裁判所詰、大坂控訴裁判所検事長などを歴任[1]。この間、1876年に萩の乱の臨時裁判所に検事として出張し、また、1877年に西南戦争の九州臨時裁判所にも検事として出張した[1]。
1883年11月14日、元老院議官に就任[1]。1889年、高等法院予備裁判官、さらに同陪席裁判官を仰せ付けられた[1]。1890年10月20日、元老院が廃止され非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられた[1]。1891年4月21日、非職元元老院議官を依願免本官となる[6]。同年4月15日、貴族院勅選議員に任じられ[7]、死去するまで在任した[2]。
栄典
編集親族
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』76-81頁。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』152頁。
- ^ a b c 『明治過去帳』新訂初版、587-588頁。
- ^ 『明治維新人名辞典』「橋口与一郎」775頁。
- ^ 日向市史編さん委員会編『日向市史 史料編 美々津県庁文書1』日向市、2003年、25頁では「12月17日」。
- ^ 『官報』第2340号、明治24年4月22日。
- ^ 『官報』第2335号、明治24年4月16日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『官報』第150号「叙任」1883年12月26日。
- ^ 『官報』第4884号、1899年10月10日、115頁、doi:10.11501/2948174。「明治三十二年十月七日 叙従三位 正四位勲三等 橋口兼三」
- ^ 官報, p. 116, 第4884号「特旨ヲ以テ位一級被進(十月七日宮内省)正四位勲三等 橋口兼三」
- ^ 『官報』第4994号「叙任及辞令」1900年2月27日。
- ^ 『明治過去帳』新訂初版、690頁。
- ^ a b c 『人事興信録 7版』人事興信所、1925年、は79頁。
- ^ 『明治維新人名辞典』775頁。
- ^ 『樺山資紀関係文書』(その2書簡) 国立国会図書館デジタルコレクション、doi:10.11501/11898428。墨書、栄脩書翰(橋口兼三宛)付属、1通。国立国会図書館内公開、静止画資料。)
- ^ 『樺山資紀関係文書』(その2書簡) 国立国会図書館」デジタルコレクション、doi:10.11501/11898429、墨書。静止画資料。
- ^ 『樺山資紀関係文書』(その2書簡)doi:10.11501/11898430、墨書。静止画資料。
- ^ 「橋口兼三書簡 樺山資紀宛」1883年9月27日(大阪控訴才判所橋口兼三)[16]。1890年11月26日「橋口兼三 書簡 樺山資紀宛」[17]4月22日「橋口兼三書簡 樺山資紀宛」[18]。
参考文献
編集- 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
- 時山弥八『関八州名墓誌』東京:村田書店(複製)、1977年(原著明治堂1926年(大正15年))。国立国会図書館書誌ID:78029676。「橋口兼三」p.68。
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』柏書房、1995年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
公職 | ||
---|---|---|
先代 河津祐之 |
大阪控訴裁判所検事長 1882年 - 1883年 |
次代 野村維章 |
先代 (新設) |
美々津県参事 1871年 - 1872年 |
次代 福山健偉 |