横田頼業
横田 頼業(よこた よりなり)は、鎌倉時代中期の御家人。下野国上三川城主。横田氏の祖。
時代 | 鎌倉時代中期 |
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生誕 | 建久6年(1195年) |
死没 | 建治3年8月11日(1277年9月10日) |
別名 | 宇都宮頼業、四郎左衛門尉、判官 |
官位 | 越中守 |
幕府 | 鎌倉幕府 伊予守護 |
主君 | 源実朝、藤原頼経、頼嗣、宗尊親王 |
氏族 | 藤原氏、下野宇都宮氏、横田氏 |
父母 | 宇都宮頼綱、稲毛重成娘 |
兄弟 | 宇都宮時綱、秋元泰業、頼業、宇都宮泰綱、益子政綱、多功宗朝、藤原為家室、三条実房室、源通成室 |
妻 | 塩谷惟広娘 |
子 | 親泰、時業、実業、秀業、頼基、松野業義、蒲生秀頼、泰親 |
略歴
編集宇都宮頼綱の次男[1]として誕生。母は稲毛重成の娘であり上条時綱は同母兄にあたる。
嘉禎3年(1237年)10月、横田城を築いて居城とし、横田郷千余町を支配して横田氏を名乗る。建長元年(1249年)には、上三川城を築いて居城を移している。寛喜元年(1229年)9月になると兄であり当主・宇都宮泰綱の活動が活発化し、それに伴い頼業や兄弟である時綱、多功宗朝、従兄弟にあたる塩谷親朝、笠間時朝兄弟らと共に幕府に出仕し活躍した。
『吾妻鏡』には、承久元年(1220年)5月20日の藤原頼経の関東下向の先陣に名を連ねるのを始めとして、数多くの記述にその名が散見され、また、知勇兼備の武将として名高く、歌人として文化的に活躍するだけでなく、『承久軍物語』では、特筆してその武勇が讃えられており、有力御家人として活躍していた事がうかがえる。仁治元年(1240年)には伊予国の守護職に就いていた。
宝治元年6月5日(1247年7月8日)に起きた宝治合戦では、同母兄・時綱と対立し、三浦氏に加担しなかったので粛清から逃れることができた。時綱は三浦一族と共に鎌倉法華堂で自害し、その子・時村は宇都宮小田橋で殺害された。
系譜
編集脚注
編集- ^ 但し、四郎を名乗っていたため四男とする説もあり。
出典
編集- 『下野国誌』横田氏系図
- 市村高男 編著『中世宇都宮氏の世界 下野・豊前・伊予の時空を翔る』(彩流社出版、2013年)ISBN 978-4-7791-1949-1