楢村玄正
楢村 玄正(ならむら はるまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。宇喜多氏の家臣。後陽成天皇から「コトシヨリ花咲初ル橘ノイカデ昔ノ香ニ匂フラン」と書かれた宸筆色紙を賜る(『楢村系図』[1])。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 慶長16年(1611年)? |
別名 | 楢村監物 |
官位 | 従五位下 |
主君 | 宇喜多直家→秀家→徳川家康 |
氏族 | 楠木氏(称・本姓橘氏)→楢村氏 |
父母 |
父:楠木正虎(『楢村系図』[1]) 養父:楢村監物 |
兄弟 | 正辰、玄正、利正、成虎、正久 |
妻 | 明石行雄娘(明石全登妹) |
子 | 之正、正隆、正家、正忠 |
略歴
編集楠木正成の子孫楠木正虎の子を称す(『楢村系図』[1])。宇喜多氏の家臣であった楢村監物の養子となる。
3100石を知行し、与力23人、鉄砲足軽40人を率いた。小田原征伐や文禄・慶長の役に従軍。慶長4年(1599年)のお家騒動の際は戸川達安に与同して大坂の宇喜多邸に籠るが、後に大谷吉継の仲介もあって主家に帰参する。しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いへの参陣を拒否されて再び主家を退出し、大和国奈良に閉居した。
慶長7年(1602年)、徳川家康より備中国に2千石を与えられた。その後、長男・孫兵衛之正の系統は断絶するが、次男・伊左衛門正隆の系統が藩士として存続する。