楠本 イネ(くすもと いね、文政10年5月6日1827年5月31日)- 明治36年(1903年8月26日[1])は、日本医師。現在の長崎県長崎市出身。

楠本 イネ
生誕 文政10年5月6日
1827年5月31日
長崎銅座町
(現 長崎市銅座町)
死没 明治36年(1903年8月26日(76歳没)
東京市麻布区
(現 東京都港区
活動期間 1871年 - 1889年
親戚 父:フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
母:楠本滝(お滝)
娘:楠本高子
異母弟:ハインリヒ・フォン・シーボルト
異母弟:アレクサンダー・フォン・シーボルト
医学関連経歴
専門 産科医

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘。日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる。“オランダおいね”の異名で呼ばれた[注 1]

生涯

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幕末

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母の瀧(お滝)

1827年(文政10年)、ドイツ人医師であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと、長崎の商家俵屋の娘、瀧(1807年 - 1869年)の間に生まれる[注 2]

瀧はシーボルトと結婚し、イネを出産。イネの出生地は長崎市銅座町で、シーボルト国外追放まで出島で居を持ち、当時の出島の家族団欒の様子が川原慶賀の絵画に残っている。ところが、父シーボルトは1828年(文政11年)間宮林蔵に送った書簡が幕府に届けられたことにより、同様にシーボルトとの書簡のやり取りをする幕府要人などの取り調べが始まり、結果国禁となる日本地図、葵の紋の入った衣服等、国外持ち出しが発覚し(シーボルト事件)、イネが2歳のときに国外追放となった。

イネは、シーボルト門下で卯之町(現在の西予市宇和町)の町医者二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学び、村田蔵六(のちの大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。1859年安政6年)からはヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、1862年文久2年)からはポンペの後任であるアントニウス・ボードウィンに学んだ。後年、京都にて大村が襲撃された後にはボードウィンの治療のもと、これを看護しその最期を看取っている。1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、1859年(安政6年)に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学ぶ。シーボルトは、長崎の鳴滝に住居を構えて昔の門人やイネと交流し、日本研究を続け、1861年(文久元年)には幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問などの講義をしている。

明治

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ドイツ人と日本人の間に生まれた女児として、当時では稀な混血であったので差別を受けながらも[要出典]宇和島藩主・伊達宗城から厚遇された。宗城よりそれまでの「失本イネ」という名の改名を指示され、楠本伊篤(くすもと いとく)と名を改める。

1871年(明治4年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー・フォン・シーボルト、弟ハインリヒ・フォン・シーボルト)の支援で東京の築地に開業したのち、福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、金100円を下賜され明治天皇女官葉室光子の出産に立ち会う(葉室光子は死産の後死去)など、その医学技術は高く評価された。異母弟ハインリヒとその妻岩本はなの第一子の助産も彼女が担当した(その子は夭折)。その後、1875年(明治8年)に医術開業試験制度が始まるが、女性であったイネには受験資格がなかったことと、晧台寺墓所を守るため、東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷する。

1884年(明治17年)、医術開業試験の門戸が女性にも開かれ、すでに57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断し、イネはこの試験を受験しなかったとする通説があるが、当該試験は新たに開業を志すものを対象とした試験であったため、町医者として豊富な経験を持つイネは受験する必要がなかったというのが実情である[2]。この試験に合格し開業した荻野吟子が「日本初の女医」として話題になるが、あくまで国家試験に合格した女医一号であり、イネを含め野中婉稲井静庵松岡小鶴榎本住光後玉江高場乱など多数の女性医者がすでに存在していた[2][3]。62歳のとき、実の娘の楠本高子(タダ、後述)一家と同居のために長崎の産院を閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。

以後は弟ハインリヒの世話となり余生を送った。1903年(明治36年)、鰻と西瓜の食べあわせによる食中毒(医学的根拠はない)のため、東京麻布で死去した。享年77。墓所は長崎市晧台寺にある。

なお、イネは生涯独身だったが、石井宗謙との間にもうけた娘・タダ(のちの 楠本高子)がいた。タダ自身の手記によれば、イネは宗謙によって船中で強姦されて妊娠した[4]。手記の中でいう船中とは、母たきが長崎に帰った際の下津井港から出ていたとされる北前船の定期航路便を見送った船ということになるため、高梁川から下津井港を結ぶ高瀬舟を指すと考えられる。このため、宇神幸男は自著の中で、関係自体はあったものの、強姦はもとより船頭やほかの乗客がいる中での船中強姦は現実的ではなかったのではないかと考察している[5]

タダの手記は以下のとおりである。

母イネト石井宗謙トノ関係ヲ申シマセウ.母イネハ,石井宗謙ヲ頼リテ医術ノ研究ニ従事スルコトニナリマシタ.祖母タキ(其扇)ハ,私ノ母イネノ落付具合ヲミル為ニ,石井ノ宅ヘ(長崎カラ岡山ニ)遙々タズネテ参リマシタ.而シテ母イネノ修行スルサマヲ見届ケ,漸ク安心致シマシテ天神丸ト云ウ船ニ乗ッテ長崎ヘ帰リマシタ.其際母イネハ,石井ト共ニ船ニ乗リマシテ,母(タキ)ヲ見送リマシテ,天神丸ガ帆ヲアゲテ出船ヲスル,母ハ石井ト二人帰リマス途中,船中デ石井ニ口説カレマシタガ,母ハ石井ヲキライマシテ,懐中ニシタ短刀ヲ以テ野獣ノヤウナ石井ヲ防ギマシタケレドモ,石井ノ暴力ニ抵抗デキズ,トウトウ処女ノ誇リヲ破ラレマシタ.母ハ一度石井宗謙ニ姦淫サレマシテカラ,其後ハ一度モ石井ト肉交ハアリマセンデシタ.母ハ,石井ヲ蛇蝎ノヤウニキラッテイタノデス.処ガ母ハ遂ニ妊娠イタシマシタ.而シテ私ヲ生ンダノデス.カウシタ因果デ,私ハ生マレマシタ.母ハ何モ天意デアラウ,天ガタダ子トシテ私ヲ授ケタノデアラウト,アキラメマシテ,私ヲタダト名ヅケマシタ.母ガ分娩イタシマシタ際ニハ,産婆ヲ使ワズ,自分デ臍ノ緒ヲ切ッタサウデス.母ハ私ヲ分娩イタシマシテ後,長崎ヘ帰リマシタ.母ガ出立ノ時ニ石井ハ見送リヲイタシマシタガ,母ハ人デナシノ石井ト大イニ恨ミ罵リマシタサウデス.母ガ石井ヲ厭フタコトハ並大抵ノ事デハゴザイマセンデシタ.母ハ石井ヲ甚ダ恨ンデヰマシタ」. — 山脇タカ、(松田誠「かつて慈恵に在学した興味ある人物 その一 シーボルトの曾孫・楠本周三」『高木兼寛の医学』東京慈恵会医科大学、2007年に掲載)
 
晩年のイネと娘高子

その後、宗謙は師匠のシーボルトの娘に手をつけていたとしてほかのシーボルト門下生から非難され、イネは彼のことを激しく憎んだ。彼女は未婚のまま一人出産し、生まれてきた私生児を「天がただで授けたもの」という意味をこめてタダと名付けたとされる。後年、タダも母と同じく伊達宗城により改名を指示され、「高」「高子」と名乗った[6]

なお、楠本高子はその美しい容貌から、のちに明治の美人写真を見ていた松本零士が『銀河鉄道999』のメーテルや『宇宙戦艦ヤマト』のスターシャのモデルにしたといわれている。なお、高子も医師に強姦されて出産しており、親子2代にわたって悲劇に見舞われた[4]

日本での子孫は楠本家、米山家。資料については叔父ハインリヒ・フォン・シーボルトの子孫でシーボルト研究家の関口忠志を中心に設立された日本シーボルト協会、子孫および研究者より資料を委託されたシーボルト記念館、イネの師で鳴滝塾生である二宮敬作の出身地愛媛県西予市の資料館が研究を進めている。

改姓改名

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シーボルトが日本において「施福多」や「失以勃児杜」といった当て字を使用していたことから、イネがそこから「失」の字を拝借し、「失本」(しいもと、しもと)と名乗っていたとされ、呉秀三の『シーボルト先生 其生涯及功業』ではイネが宇和島を訪れた際に伊達宗城が失本伊篤(姓を「失本」から「楠本」に、名を伊達の一字を与えて「伊篤」に)という姓名に改めさせたと記している[7]。しかし、『藍山公記』や三瀬諸淵がイネに宛てた書簡などでは「矢本」となっており、そもそも「失本」という名乗りはしていなかったという可能性が指摘されている[7]。また、楠本姓や伊篤という名に関してもシーボルト記念館の館長を務めた織田毅は伊達宗城と出会う前より名乗っていたと指摘しており、イネが厚遇された伊達家への恩を強調し、先祖美化の意図をもって後に語ったのではないかとする歴史家も存在する[7]

吉村昭の『ふぉん・しいほるとの娘』の中で古賀十二郎はイネが「志本」「矢本」という姓、「伊篤」という名を折々名乗ったとしており、シーボルトの「Si」、「bo」を転化させた「mo」、「d」の音「to」の三音を合わせたものを姓とし、「i」と「d」の発音のままに「イト」を充てた名を使用し、矢本(あるいは志本)伊篤はどちらも父であるシーボルトから着想を得た姓名だったのではないかとしている[7]

異名

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楠本イネの存命中において、「オランダおいね」という呼称が存在したことを裏付ける資料は存在しておらず、宇神幸男は1970年3月30日から9月26日までポーラテレビ小説として放送されたテレビタイトル『オランダおいね』(TBS)が初出であり、同作品の脚本を手掛けた横光晃の造語であるとしている[8]。その後、シーボルトの玄孫にあたるクラウディア・シーボルトが来日し、シーボルトの足跡をたどったことを報じた新聞のなかで楠本イネに対して「オランダおいね」という名称が充てられるなど、異名として一般的に普及したとみられている[8]。 

登場する作品

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小説
  • 司馬遼太郎花神』。新潮文庫ほか、主人公大村益次郎に恋するヒロインとして描かれている
  • 吉村昭『楠本いね』(短編小説『日本医家伝』収録)。新版は中公文庫、他に新潮社「自選作品集」に収録
  • 吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』(長編小説、主人公)。新版は新潮文庫(上下)、岩波書店「歴史小説集成六」
  • 宇神幸男『幕末の女医楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』現代書館、2018年
漫画
テレビドラマ
ミュージカル

関連文献

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  • 呉秀三『シーボルト先生 その生涯及び功業』(再版)吐鳳堂書店、1926年10月4日。NDLJP:1020882 
    • 呉秀三『シーボルト先生 その生涯及び功業』 第1巻、岩生成一 解説、平凡社東洋文庫 103〉、1967年11月。ISBN 4-582-80103-X 
    • 呉秀三『シーボルト先生 その生涯及び功業』 第2巻、岩生成一 解説、平凡社〈東洋文庫 115〉、1968年5月。ISBN 4-582-80115-3 
    • 呉秀三『シーボルト先生 その生涯及び功業』 第3巻、平凡社〈東洋文庫 117〉、1968年6月。ISBN 4-582-80117-X 

脚注

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注釈

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  1. ^ 実際は日独混血であるが、オランダ政府に雇用されていたシーボルトが江戸幕府に対し、自分をオランダ人と偽っていたため、こう呼ばれた。ドイツ人なら当時は上陸が許されなかった。
  2. ^ イネの母である瀧は丸山遊女(源氏名「其扇(そのおうぎ、そのぎ)」)と言われるが、実際に遊女をしていたわけではなく、シーボルトに見初められ、出島に出入りをするために「名付遊女」(遊女屋に手数料を支払って名義だけの籍を置くこと)として遊女のふりをしていただけである。

出典

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  1. ^ 楠本イネ(くすもとイネ)とは”. コトバンク. 朝日新聞社. 2019年4月10日閲覧。
  2. ^ a b 宇神幸男『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』p.236
  3. ^ 宇神幸男『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』p.59-p.60
  4. ^ a b 松田誠かつて慈恵に在学した興味ある人物 その一 シーボルトの曾孫・楠本周三」『高木兼寛の医学』東京慈恵会医科大学、2007年。オリジナルの2016年1月27日時点におけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20160127171753/http://ir.jikei.ac.jp/bitstream/10328/3470/3/TK_igaku_561.pdf2016年1月21日閲覧 
  5. ^ 宇神幸男『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』p.72
  6. ^ 母いねのこと”. 2015年6月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年8月30日閲覧。
  7. ^ a b c d 宇神幸男『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』p.139
  8. ^ a b 宇神幸男『幕末の女 医楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』p.52-p.53

外部リンク

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