楊本範満
楊本 範満(やなぎもと/やないもと のりみつ)は、室町時代後期の武将。
時代 | 室町時代後期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 文明3年閏8月9日(1471年9月23日) |
別名 | 範満入道 |
幕府 | 室町幕府 |
氏族 | 楊本氏 |
父母 | 祖父:楊本範兼 |
子 | 源次 |
概要
編集『親長卿記』文明3年(1471年)閏8月9日条によると、応仁の乱の最中、畠山義就派の越智氏と手を組んでいたため、東軍方の十市遠清に居城の楊本城攻められ、子の源次とともに討ち取られたという。『大乗院寺社雑事記』によると、範満は堀に落下して死去し、源次は切腹して果てたとされる[1]。
『実隆公記』文明7年(1475年)9月20日条によると、後継者の楊本某が筒井氏(順尊か)・片岡氏・箸尾氏(為国か)の仲介によって十市遠清と和睦したとされる[2]。