楊 揆一(よう きいつ)は中華民国の軍人。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。黙庵

楊揆一
プロフィール
出生: 1885年光緒11年)
死去: 1946年民国34年)6月24日
中華民国の旗 中華民国南京市
出身地: 清の旗 湖北省宜昌府鶴峰州
職業: 軍人
各種表記
繁体字 楊揆一
簡体字 杨揆一
拼音 Yáng Kuíyī
ラテン字 Yang K'ui-yi
和名表記: よう きいつ
発音転記: ヤン クイイー
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事績

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清末に、湖北の軍管帯をつとめた。1912年民国元年)、日本に留学し、陸軍士官学校歩兵科で学んだ。

1932年(民国21年)、国民政府で駐鄂特派綏靖主任公署参謀長に任ぜられる。1936年(民国25年)、陸軍中将に昇進した。翌年1月、湖北省政府委員に任命され(当時の省政府主席は黄紹竑)、11月に同政府秘書長に就任した。1938年(民国27年)9月、軍事参議院参議に異動している。

1939年(民国28年)8月、汪兆銘(汪精衛)に合流して、汪派の中国国民党中央執行委員に任命された。翌年3月、正式に南京国民政府が成立すると、参謀本部政務次長に任ぜられ、代理部長をつとめた。あわせて中央政治委員会指定委員(以後4期務める)、軍事委員会常務委員も兼任している。1941年(民国30年)3月、正式に参謀本部部長に昇格し、あわせて清郷委員会委員となる。12月、軍事委員会弁公庁主任も兼任した。

翌年6月、湖北省政府主席に任命される。翌月、軍事委員長駐武漢行営参謀長も兼ねた。1943年(民国32年)1月、湖北省省長(省政府主席の改組)となる。8月、全国商業統制総会武漢分会委員長となった。12月、湖北省の新国民運動促進委員会主任委員をつとめた。翌年4月、武漢綏靖主任公署主任となる。1945年(民国34年)3月、軍事参議院院長に異動した。

日本敗北後、楊揆一は国民政府に逮捕される。漢奸の罪に問われて死刑判決を受けると、1946年(民国35年)6月24日、南京雨花台で胡毓坤凌霄と共に銃殺刑を執行された[1]。享年62。

  1. ^ 毎日新聞社編、72頁及び益井、20頁による。鄭は「1945年冬」とするが、誤り。

参考文献

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  • 鄭仁佳「楊揆一小伝」『伝記文学』ホームページ(台湾、要繁体字フォント)
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 毎日新聞社編『毎日年鑑1947』毎日新聞社、1947年。 
  • 益井康一『裁かれる汪政権 中国漢奸裁判秘録』植村書店、1948年。 
   南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(創設)
参謀本部長
1940年3月 - 1942年6月
次代
葉蓬(参謀総長)
先代
何佩瑢
湖北省政府主席
1942年6月 - 1943年1月
次代
(湖北省長に改組)
先代
(湖北省政府主席から改組)
湖北省長
1943年1月 - 1945年3月
次代
葉蓬
先代
蕭叔宣
軍事参議院長
1945年3月 - 8月
次代
(廃止)