楊宇霆
楊 宇霆(よう うてい)は、清末民初の軍人。北京政府奉天派に属した。字は麟葛。
楊宇霆 | |
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プロフィール | |
出生: | 1886年(清光緒12年) |
死去: |
1929年(民国18年)1月 中華民国遼寧省瀋陽市 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区奉天府康平県(現在の法庫県) |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 楊宇霆 |
簡体字: | 杨宇霆 |
拼音: | Yáng Yǔtíng |
ラテン字: | Yang Yü-t'ing |
和名表記: | よう うてい |
発音転記: | ヤン・ユーティン |
生涯
編集日本に留学し、陸軍士官学校砲兵科を卒業した。中華民国成立後、東三省講武堂教官、陸軍部科長、奉天軍械局局長、奉天盛武将軍公署参謀長、奉天督軍公署参謀長、奉軍司令部参謀長などの職を歴任した。1921年(民国10年)、東三省巡閲使署総参議兼奉天兵工廠総弁に任命された。
1924年(民国13年)、第2次奉直戦争の際には、鎮威軍総参謀長に任命され、総司令張作霖を補佐した。この頃から、奉軍内の有力軍人である郭松齢を最大の政敵と見做し、これと対立を深めていく。奉直戦争勝利後、楊宇霆は江蘇軍務督弁に任命されたが、元直隷派の孫伝芳の攻撃を受けて(奉浙戦争)撤退した。
1925年(民国14年)11月、郭松齢が張作霖に対して兵変を起こすと、楊宇霆も郭松齢の標的とされる。そのため、楊宇霆は一時大連に逃げ込んだ。結局郭松齢は、関東軍の支援を受けた張作霖の反撃を受けて敗死している。その後、楊宇霆は東北第4軍団総司令、安国軍政府大元帥府参謀長などをつとめた。
1928年(民国17年)6月4日に張作霖が関東軍に爆殺された後は、楊宇霆は張学良と権力争いを展開している。しかし同年12月29日の易幟を経た1929年(民国18年)1月、楊宇霆は張学良に緊急逮捕され、即座に銃殺に処された。享年44。
参考文献
編集- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 任松・武育文「郭松齢」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第12巻』中華書局、2005年。ISBN 7-101-02993-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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