森本角蔵
日本の漢学者
森本 角蔵(もりもと かくぞう、1883年(明治16年)2月27日[1] - 1953年(昭和28年)3月9日[2])は、日本の漢学者・教育者。
人物情報 | |
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生誕 |
1883年2月27日 日本鳥取県 |
死没 | 1953年3月9日 (70歳没) |
出身校 | 東京高等師範学校 |
学問 | |
研究分野 | 漢学 |
研究機関 | 東京高等師範学校・実践女子大学 |
経歴
編集鳥取県出身。鳥取県師範学校を経て、1911年(明治44年)に東京高等師範学校を卒業し、翌年に同研究科を卒業した[1][3]。同年、東京高等師範学校助教諭となり、教諭、助教授・附属中学校理事を経て、1927年(昭和2年)に教授・幹事となった[1][3]。のち附属中学校主事を兼ねた[4]。
著作
編集- 『四書索引』(経書索引刊行所、1921年)
- 『鮮満支那ところどころ 雲烟過眼日記』(目黒書店、1926年)
- 『日本年号大観』(目黒書店、1933年)
- 『五経索引』(目黒書店、1944年)
- 『桐蔭間語』(目黒書店、1949年)
脚注
編集- ^ a b c 大衆人事録 1930.
- ^ a b 『1954年版 毎日年鑑』毎日新聞社、1953年。
- ^ a b 人事興信録 1939.
- ^ 大衆人事録 1943.
参考文献
編集- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版』帝国秘密探偵社、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版(下)』人事興信所、1939年。
公職 | ||
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先代 馬上孝太郎 |
東京高等師範学校附属中学校主事 1941年 - 1945年 |
次代 熊井甚太郎 |