森本 清蔵(もりもと せいぞう、元治元年4月28日1864年6月2日) - 昭和8年(1933年1月12日[1] )は、日本教育者

もりもと せいぞう

森本 清蔵
生誕 (1864-06-02) 1864年6月2日元治元年4月28日
播磨国加西郡殿原村(現・兵庫県加西市
死没 (1933-01-12) 1933年1月12日(68歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 高等師範学校理化学科
職業 教育者官吏
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経歴

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兵庫県出身。1885年明治18年)、神戸師範学校を卒業し、ついで1889年(明治22年)に東京高等師範学校を卒業した。愛知県師範学校教諭、同校長、徳島県師範学校教諭、福岡県師範学校校長、東京高等師範学校教授、大阪府師範学校校長を歴任。1904年(明治37年)、大阪府視学官に任じられた。1906年(明治39年)、文部省視学官となり、さらに奉天省教育顧問としてに招聘された。1908年(明治41年)に帰国後は愛知県明倫中学校校長を務めた。その後、宮崎県立宮崎中学校校長に就任した[2]

脚注

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  1. ^ 『茗渓会七十年史』茗渓会、1952年、101頁。 
  2. ^ 『官報』第1177号、大正5年7月4日。

参考文献

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森本清蔵

関連文献

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  • 「高等師範附属小学校主事 森本清蔵君小伝」(『日本之小学教師』第3巻第36号、1901年12月)
  • 「名古屋私立 明倫中学校長 森本清蔵氏」(教育実成会編纂 『明治聖代 教育家銘鑒 第壱編』 教育実成会、1912年5月)
公職
先代
大島正健
宮崎県立宮崎中学校
1916年 - 1921年
次代
善波功
先代
是石辰次郎
大阪府師範学校長
1902年 - 1904年
次代
瀬川彦四郎
先代
高等師範学校附属小学校主事
小泉又一
  東京高等師範学校附属小学校主事
1902年
高等師範学校附属小学校主事
1900年 - 1902年
次代
主事事務取扱
波多野貞之助
先代
加藤常七郎
福岡県師範学校長
1898年 - 1900年
次代
園田定太郎
先代
中川郊次郎
愛知県尋常師範学校長
1896年 - 1897年
次代
清川寛
その他の役職
先代
千葉良祐
私立明倫中学校
1908年 - 1916年
次代
土屋員安